Archive for the ‘Travelogue’ Category

チコの旅行記:1974年のソ連と東欧 Part 2

Thursday, June 16th, 2016
ポーランド民族舞踊

ポーランド民族舞踊

ブロツワフ(ポーランド)

1970年代でも、ポーランドは西を見ているんだ、との印象が強かった。直前にソビエトで3泊した経験から感じた事だった。ここでも物不足は深刻だったが、本屋に並んだ雑誌は、ソ連では見られない多様さがあった。女性のファッション雑誌を手に入れることなど、モスクワでは夢のまた夢だった。

ポーランドには2週間滞在した。私たちのホストファミリーは、ポーランドの南西部に位置するブロツワフ市に住んていた。家族構成は、50歳代の夫婦、20歳前後の息子と、大学院生の彼のお姉さんの4人で、平均的なアパート住まいをしていた。警察署に外国人の私たちが滞在していることを報告する義務があったと聞いた。

到着して3日目、息子さんの通訳でお父さんと話す機会があった。彼は、ポーランドの政治、経済に対してとても悲観的な見解を持ってみえた。不換紙幣のズゥオーテは国外では塵同様だった。ドルがなければ国を出られない。欲しいものも買えない。彼は、息子をスエーデンかカナダに出して、そこで一旗揚げさせたいと言っていた。

ある日、ブロツワフ市内の公園で、金閣寺に似た建物を見つけた。日本庭園の中にあったが、1990年代後半、公園の大改修をした時壊したそうだ。[ポーランド観光局員の情報]今となっては、“失われた金閣寺”となった構造物の写真を貼付する。

ブロツワフ市にあった”失われた”金閣寺 ”Lost Golden Pavilion” @Wroclaw, Poland

数日後、公会堂でポーランド民謡と舞踊の舞台を見た。民族衣装に身を包み、長い髪を三つ編みにした女性が演述する哀愁を帯びたメロディーは、言語の壁をワープして私の胸に飛び込んだ。心が震えた。3か月後、私はアイルランドに到着して、9か月を過ごし、何度か伝統的大衆文化に触れる機会を得た。伝統音楽についていうと、私はポーランド民謡の方により惹かれる。

ポーランド滞在半ばの5月初旬、鉄道でアウシュビッツ収容所を訪れた。古都クラクフのパロマ・ホテルに2泊しての小旅行だった。産業公害でクラクフの由緒ある建造物が汚染されているのが目立った。銅像や銅板の屋根が腐敗し始めていた。同行してくれた息子さんの話では、市民の公害に対する不満が高まっているとのことだった。アウシュビッツ収容所では、亡くなった400万人のユダヤ人が使っていた靴や身の回りのものが展示されていた。小雨の中、Eternal Flame(永遠の炎)に献花する人たちがいた。私の心は鉛のように重かった。

クラクフ Krakow

クラクフ Krakow

アウシュビッツ Auschwitz

アウシュビッツ Auschwitz

アウシュビッツ Auschwitz

アウシュビッツ Auschwitz

ホストファミリーの家にある白黒テレビを見て、腹を抱えて笑った。ハリウッド映画が放送されていた。英語の音声の上にポーランド語がヴォイスオーヴァ―されていた。だから2か国語がほぼ同じボリュームで同時進行した。笑点は、一人のヴォイスアクターが登場人物全員を担当することだ。私が見た映画では、中年男性のヴォイスアクターが老若男女ひっくるめて一人でポーランド語を被せていた。安上がりの音声多重放送には違いないが、私には爆笑ものだった。

東にコチコチのソビエト連邦、西に共産圏最西端砦の東ドイツに挟まれたポーランドは、一息つける国だった。ソビエトは、交通費・宿泊費等全部前払いしないと旅行手続きできなかった。到着するとインツーリストの職員が迎えに来てホテルに連れて行く。お決まりの市内観光コースに駆り出す。橋梁なんぞの写真を撮ったりしたら、フイルムを没収される。滞在期間が終れば、駅や空港まで見送って、発つのをしっかりと見届ける。メデイア(出版物、テレビ・ラジオ放送)や風俗店等の規制が厳しかった。ポーランドでは、自由行動ができた。若者たちは、私たちの前で政府に批判的なことを言及するのを怖れていなかった。4年後1978年にポーランドを再訪したとき、ブロツワフの友人たちがストリップ劇場に行こうと誘ってくれた。ソビエトでは、考えられないことだった。

ポーランド民族舞踊

ポーランド民族舞踊

東ドイツ

ポーランドから西欧に入る前に、東独のワイマール市に5日滞在する計画を立てた。ブロツワフ市でビザを取得する時、東ドイツの一部滞在費用$60を払った。ワイマールに着いたらドイツマルクで同等額を受け取ることになっていた。

5月11日。ワイマールには夕方到着した。まずは、ライゼビューロー(国営旅行社)に行き、お金を受け取って、そこでホテルの手配をしてもらうつもりだった。ところが、タクシーが拾えない。一時間以上待った挙句、漸く捕まえたタクシーで駆け付けたものの、ライゼビューローは既に閉まっていた。仕方なく、足を棒にしてホテル探しをしたが、空いている宿泊施設が見つからなかった。手持ちのマルクは、ほどんどなく、翌日は土曜日だった。ワイマールでの宿泊を諦めて、西独ハンブルク行きの夜行列車に乗り込んだ。前払いしたお金は、結局戻らなかった。

西ドイツへ

1990年代に入って、ベルリンの壁が崩壊しポーランドが西側の経済政策をいち早く採用すると聞いた時、全然驚かなかった。それどころか、当然と思った。1970年代のソビエトと東ドイツを色で表わすと、薄暗闇色のソ連、セピア色の東独。ポーランドは褪せているが少し色味がかっていた。ずっと前から、ポーランドは東ブロックから飛び出す機会を狙っていたに違いない。

1974年5月12日、列車で東西ドイツの国境を越えた瞬間、文字通りテクニカラーの世界に入ったと感じた。透明だが、ドイツを東西に分かつカーテンが確実に実在すると思った。あれ以来、不可視バリアをあのように限りないリアリティを持って通過した経験はない。

*****

西ドイツに入ると、ユーレール・パスを有効利用することにした。フランクフルト近郊のドイツ人の家族と数日を過ごし、フランス、デンマークを経て、ノルウェーの友人宅に1か月余お世話になった。その後、スペインまで鉄道で南下し、フランスに戻ってイギリスに渡り、コーチマスター・バス周遊券でグレート・ブリテンを3週間巡った。ここまでは、友人と二人で行動した。

 

7月末、一人になった私は、ウエールズの最西端の港町ホーリーヘッドからフェリーボートでアイルランドの首都ダブリンに向かった。新潟を出発してから、3か月以上が過ぎていた。傍らのオレンジ色のトランクに刻まれた傷の一つ一つが長い、長い旅路を物語っていた。若さゆえにできた、と結論づけることができるのだろうか?よくぞあのような怖いものなしの行動をしたものだ!

この旅行には、追記がある。翌1975年ダブリン滞在を終えた私は、西回りで日本に帰ることにした。4月、ダブリンからボストンに飛び、知人宅に泊まった。数日後、シカゴに飛び、イリノイ州シャンペン市に2泊。そこからはAmtrakの寝台車でサンフランシスコまで旅し、中華街にあるホテルに泊まった。LAに飛んで乗り換えし、ハワイ経由で東京に着いたのは、私が日本を出てからちょうど1年後だった。2年かけて旅費を貯めた。旅行準備に7か月を要した。私の初めての海外旅行は、ソ連を皮切りに西回りで地球をぐるりと一周りしたことになった。千津子

チコの旅行記:1974年のソ連と東欧 Part 1

Thursday, June 9th, 2016

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1974年4月、私は初めて日本を出ました。最終目的地は、ヨーロッパ西端アイルランドの首都ダブリン。そこに7月末に到着することを照準にしていたので、それまでの3か月余の時間をかけて、ソ連を皮切りに西へ漸進しながら旅行することにしました。手元にある日記と私の記憶を辿りながら、当時のソビエト連邦とポーランドをご紹介します。

ソビエト連邦USSRが消滅して、既に四半世紀が過ぎようとしていますが、私の知っているユーラシアの大国は、ロシアではなく、ソ連です。実はソビエトには二度行きました。一回目は1974年春。私の初めての外国旅行で、長い“欧州街道”の出発点でした。二度目の旅は1978年夏、45日掛けて鉄道でソ連とポーランドと周りました。こちらの旅行記は、一緒に行った人が英語版で出していますので、触れません。今となっては、消えた大国USSRですが、日記に目を通すと、40年以上も前のソビエトが、私の心に鮮やかに蘇ってきます。「東欧」と言う言葉は、今では陳腐な響きがありますね。

旅程:昭和49年

4月19日          アエロフロート機で新潟からハバロフスクへ

4月20日          アエロフロート機でモスクワへ

4月22日          アエロフロート機で東ベルリンへ

4月25日          鉄道でポーランドへ(ホーム・ステイ)

5月10日          鉄道でワイマール(東ドイツ)へ

5月11日          鉄道で西ドイツへ

 

新潟からハバロフスクへ

時は、ブレジネフ政権時代。西側情報を厳しく制限していたUSSRことソビエト社会主義共和国連邦。

新潟発ハバロフスク行アエロフロート直行便、乗客4名のみ

新潟発ハバロフスク行アエロフロート直行便、乗客4名のみ

1974年4月19日午前11時20分、新潟発ハバロフスク行直行便。乗客は、スイス人2人、友人と私の4人だけだった。搭乗すると自動的にファーストクラスに通された。乗務員の数の方が多かった。採算完全無視。さすが共産国。ハバロフスク着午後2時15分。ソ連の極東は日本より一時間早い(GMT-9時間)ので、飛行時間3時間弱。

ハバロフスクに到着すると、インツーリストから派遣された日本語の達者な女性が迎えに来ていた。マイクロバスで宿泊先セントラル・ホテルに連れて行ってくれた。翌日の市内観光案内も彼女が担当だった。彼女の日本語は流暢且つ語彙豊富。その金髪の女性から俗語(ヤクザ用語)が発せられた時は、私の口がアングリ。余り驚いたので、どこでその言葉を習ったのか彼女に尋ねそこなった。

 

 

インツーリストの通訳ガイドさん@ハバロフスク

インツーリストの通訳ガイドさん@ハバロフスク

ハバロフスクの町は、だだっ広いスペースに無味乾燥な鉄筋コンクリート造のアパートが目立った。市内観光をしたけれど、どこに行ったか、ほとんど記憶にない。おそらく、動物園とレーニン像、オベリスクを見たくらいだったのだろう。メーデーは10日以上も先だったが、町の広場では数百人の学生と軍人がパレードの予行演習に余念がなかった。ソ連に於けるメーデーの重さが印象に残った。

4月19日の為替レート:1ルーブル372円=$1.33。ちなみに、2016年5月28日現在、1ルーブル1.64円、$0.015ドル。レートを見るだけでも、その後のロシア経済の歩みが困難だったことが想像できる。

翌日ハバロフスクからソビエトの国内機でモスクワに飛んだ。小柄な私でも、前の席との間隔が狭く、閉口した。国内線の飛行機は軍用機の払い下げと聞いた。日本では、ソビエト国内の飛行機事故は聞いたことがなかったが、そういう情報は国外に出ないとも言われていた。詮索しないことにした。

 

モスクワ

クレムリンを背景に

クレムリンを背景に

4月20日夜、モスクワ着。雪だった。そこに住んだことのある友人の語ったモスクワの冬を思い出した。「寒い日は、女性はメーキャップを濃くするよう指示が出る。外を歩く時は、呼吸に気をつけなければならない。吸引は前向きでOK。でも、息を吐く時は湿気が顔にかからないよう、顔を斜め後ろに傾けなければだめだよ。」何となく頷けた。

クレムリンの残雪

クレムリンの残雪

 

 

物資不足。デパートでは、空いている棚の方が多い。食料品も粗野なものばかり。お店の前、食堂の前はどこも長蛇の列。でも、外国人は、何十人抜きで、列の一番前に行って、サービスを受けることが出来る。免税品店では、良質のウオッカが手に入るが、外貨を持たない地元の人には手に届かない。自国民への差別。粗悪なウオッカに酩酊する人が目につく。モスクワ地下鉄は、深いところを走ると思った。2か月後、ロンドンの地下鉄に乗った時、モスクワのそれを思い出した。エスカレーターが、ズンズン地下に潜っていく感じが酷似していた。

泊まったメトロポリス・ホテルのロビーは人種のるつぼ的様相だった。大勢の人が食事をし、ダンスをし、テレビを見たりしていた。今思えば、ホテルのロビーが社交場になっていたのだろう。黒檀色の肌を持つアフリカ人を初めて見た。ロビーには“人種差別アリ”の空気が充満していた。日本人の私も見下されたような雰囲気を強く感じ、不快だった。ドルの闇取引を促す人もいた。

ホテルの部屋には、毎晩いたずら電話が掛って来た。新潟から一緒だったスイス人もそう言っていた。ホテルのバーで酔っぱらった若者たちが、手あたり次第ダイヤルを回すらしい。迷惑だったが、危険とは思わなかった。

赤の広場では、軍人たちが一週間後に迫ったメーデーに向けて猛練習をしていた。パレードの規模は、ハバロフスクの比でなかったことは言うまでもない。

モスクワの女性は、厚化粧ながらも綺麗な人が多いと思った。対照的に、男性は光っていなかった。

Lenin 74

ベルリン

モスクワからアエロフロート機で東ベルリンに飛んだ。ビザは持っていなかったが、問題なかった。入国審査を終えたその足で、Uバーンに乗って査証の心配をしないですむ西ベルリンに入った。

ベルリンは物価が高いと思った。最初に泊まったアロサ・ホテルの室料は2万円もしたので、翌日そこから300メートル離れたところにあるペンション(民宿)に移った。料金は半減した。マルクの換算レートは86円。ドイツの通貨は、ずっと安定していることがわかる。

ベルリンに行った目的は、そこでポーランドの観光ビザを取ることだった。ポーランド領事館で滞在予定2週間と申請して、318マルクを支払った。査証手続き料金にいくらか前払い金が入っていたと思う。1日当たり$20くらいの。

ベルリンの町並みは伝統の重みがあり、整然としていた。ドイツ人は長身でスタイルが良く、散歩に連れている犬さえ、ダンディに見えた。犬糞の放置は許されていなかった記憶がある。全体に文化レベルも生活水準も高いと感じた。住民は旅行者に対して無関心に思えた。

ベルリンに着いて3日目、Zoo駅で翌日乗る電車の時刻を確認した。目的地は、友人の住むポーランド西方の町ブロツワフWroclaw(ドイツ名Breslau)。途中ポーランドのポズナン駅で乗り換えが必要だった。

ベルリン滞在最後の日、ペンション近くのカフェでピンク色のビールを味わった。甘口で、とても飲みやすかった。1杯2.4マルク。後にも先にも、ピンク・ビールを口にしたのはこの時1回だけだ。

[Part 2に続く]