Archive for the ‘歴史History’ Category

2015年訪日シリーズ その1 恩師冨田弘教授の足跡を追う - 鳴門市ドイツ館を訪ねて

Monday, June 1st, 2015
鳴門市ドイツ館

鳴門市ドイツ館

Part III

会話が一段落したので、館長について二階の展示室を見に行こうとしたところ、小学生の大きなグループが階段をふさいでいました。それで、館長は私一人では行きずらい場所を車で案内してくださいました。まず、大麻比古神社裏手にある、ドイツ橋とめがね橋。両橋ともドイツ人俘虜が造った石の構築物ですが、めがね橋は小さなもので、日本庭園にしっくり収まる石橋のように見えました。それから、ドイツ村公園に向かいました。そこは、俘虜たちが生活していたバラックが立ち並んでいた場所です。写真は、そのうちの一棟半分の土台跡。当時のバラックは公園西隣の県営住宅が建つ敷地を含んで並んでいたようです。

ドイツ橋

ドイツ橋

めがね橋

めがね橋

バラック跡、ドイツ村公園

バラック跡、ドイツ村公園

ドイツ館に戻ると、館内は落ち着きを取り戻していたので、二階の展示場に行きました。松江収容所長、俘虜たちの手による刊行誌『ディ・バラッケ』、第九シアター等がフィーチャーされていました。館長はドイツ人俘虜の中には東大や北京大学で教鞭をとったアカデミア、優れた音楽家、職人たちがいたこともお話くださいました。ウィキペディアで読んだのですが、神戸のユーハイムや愛知県半田市の敷島製パンも残留ドイツ人俘虜の遺産でした。第一次大戦から第二次大戦に至って、日独関係が改善された誘因が、第一次大戦中の日本でのドイツ人俘虜の好処遇との説明もありました。

第九シアター、ドイツ館

第九シアター、ドイツ館

2時間も私のために時間を費やしてくださった川上館長にお礼を言って、ドイツ館で自転車をお借りしました。残り3時間。共通入場券だったので、同じ敷地内にある賀川豊彦記念館に立ち寄ることにしました。

半券を渡して入口横のビデオ室に入るやいなや、職員らしい男性が私がどこから来たのか尋ねました。名刺を見ると、鳴門友愛会会員の若松さんという方でした。「イリノイです。」「私は(イリノイ州の)リンカン市を訪れたことがあります。」と彼は顔を綻ばせました。私が小さな私設日本語図書室を運営しているとお話したところ、「お宅の図書室に賀川豊彦著書の中から、一冊寄贈します。」と仰って下さいました。お言葉に甘えて、『死線を越えて』を受け取ることにしました。数分後田辺館長が到着すると若松さんは私を紹介してくださいました。私は長椅子に腰かけて館長と45分も歓談するお時間を戴き、恐縮しました。私の賀川豊彦氏に関する知識は、ウィキペディアの域を出ていなかったので、これから彼について勉強する決意を固めました。

賀川豊彦記念館

賀川豊彦記念館

気が付けば既に午後1時近くになっていたので、お暇して外に出ました。日中快晴のお天気予報は大きく外れ、雷雨になっていました。記念館でお借りした傘を片手に、危なっかしいこと極まりない状態で自転車を漕ぎながら、四国八十八ヶ所霊場第一番札所霊山寺を目指しました。板東訪問の最終目的は、恩師の墓参りだったので、霊山寺参拝は必須でした。本堂の前で合掌し、恩師が私をここ板東に導いてくれたことに感謝しました。素晴らしい人たちに出会い、彼らの優しい心に触れた感動で熱いものが胸から込み上がるのを堪えることが出来ませんでした。午後2時15分。時間が許せば第二札所の極楽寺にも行きたかったのですが、諦めました。自転車を返却し、急いで民宿に戻り、タクシーで池谷駅に直行し、午後3時37分のうずしお特急で鳴門を後にしました。

霊山寺

霊山寺

思えば、恩師冨田教授と4月4日の誕生日を共有した私は、大学時代から公私ともにお世話になりました。私が渡米した1988年に亡くなられたのを知ったのが、昨年秋。この春、予定より2年早く急遽会社を辞め、訪日を決定。アメリカを発つ前、奥様がご健在かどうか、そして恩師のお墓の場所を調べようとしたのですが、努力は報われませんでした。恩師が愛知県立大学から1980年ころ移籍されていることは知っていましたら、豊橋技術科学大学にも連絡を入れたのですが、「何分30年も前のことでして、情報がございません。」というお詫びのメールを受け取りました。恩師の名古屋の住所をネットで検索しましたが、既に家は跡形もなく、某大学のキャンパスの一部になっていました。恩師に続く道への手がかりはドイツ館だけでした。

5月14日、板東で過ごした6時間は、2015年訪日の最も心に残るものになりました。ドイツ館の川上館長、賀川豊彦記念館の田辺館長並びに若松さんたちの暖かい人柄と心遣いに触れることが出来ました。一世紀近く前、青島から送られてきたドイツ人俘虜たちが接した板東の人たちは、今年私を迎えてくださったこの人たちのようであったのではないでしょうか?ドイツをこよなく愛した故冨田弘教授が、私にそれを伝えたかったのかもしれません。

ドイツ館川上館長と

ドイツ館川上館長と

賀川豊彦記念館田辺館長と

賀川豊彦記念館田辺館長と

 

2015年訪日シリーズ その1 恩師冨田弘教授の足跡を追う - 鳴門市ドイツ館を訪ねて

Monday, June 1st, 2015
賀川記念館からドイツ館を見る

賀川記念館からドイツ館を見る

Part II

恩師の足跡を追う

一年近くも前から私は2015年は有給休暇を利用してアイルランドを旅する年にしようと考えていました。ところが、今年1月職場で予期せぬ事態が生じ、3月には辞職を決断しました。4月の第2週を最後に、職場を去りました。振り返れば、1988年渡米直後職を得てから、30年近く働きづめでした。疲れていました。気分転換が必要と感じました。主人も「ご苦労さん」「骨休め」旅行を勧めてくれました。そうと決まれば、早急な出立を希望しました。アイルランドが第一候補、そして、その次が日本。飛行機の空席状況、費用、旅程の満足度等を考慮したところ、第二候補の日本が魅力を増してきました。折しも、友人の企画する鎌倉歴史セミナーが5月に開催されることもあり、Destination Japan(目指すは日本)を決定しました。

15日間の日本滞在を、いかに有意義に過ごすか?せっかく6000マイルも旅するのですから、濃厚且つ満足度の高いものにしたいと思いました。東京と実家のある愛知県を拠点にすることは決めていましたが、それだけでは物足りないので、小旅行を組み込むことにしました。40年来行きたかった萩に2日、そしてもう1日追加して恩師の研究資料を蔵している鳴門のドイツ館にも足を延ばす方向で計画を進めました。ドイツ館で恩師を知っている人がいるかもしれないと思い、メールを入れてみると、川上館長から丁寧な返信が届きました。数回の交信後、5月14日に私がドイツ館に伺う旨を連絡させていただきました。館長経由で、前夜の宿泊を近くの民宿に予約しました。

5月13日午後、二日間の萩滞在を終えて、徳島県鳴門市の池谷駅に向かいました。ドイツ館の最寄りの駅は板東ですが、普通電車しか止まらないので、特急が止まる一駅先の池谷まで行く手配をしていました。東萩駅を午後2時41分乗車。電車5本を使い、長門市、厚狭、新山口、岡山で乗り継ぎ、池谷に到着したのは、夜9時5分でした。うずしお特急が止まると言っても、池谷は無人駅で、降車者も数人しかいませんでした。萩で体力を消耗したのか、お土産を買いすぎたのか、ずっしり重くなったスーツケースを難儀そうに引き摺ってホームから駅舎に向かうと、年配の男性が待っていました。民宿のご主人が迎えに来てくれていました。

ミニバンに乗り込むと、ご主人が私の出身を訪ねました。「米国イリノイ州から来ました。恩師冨田弘教授の研究資料があると聞いたので、明日、ドイツ館を訪ねます。」「冨田先生なら、いつもうちに泊まってくれてました。来られると1週間から10日も滞在されましたよ。いつも研究してましたなぁ。家内も先生を良く知っていましたよ。」徳島で最初に会話した人が恩師を知っていたことに、驚きと喜びで胸でいっぱいになりました。宿に着いてお風呂をもらうと、夜中近くになっていました。

民宿観梅苑は1キロもある灯篭で飾られた大麻比古神社参道の中ほどに隣接しています。部屋数は15くらいでしょうか。私は2階の一室をあてがわれました。14日朝、障子窓を引くと、数百メートル先、鮮緑の中にヨーロッパ風の白壁蒼屋根の建物が見えました。ネットで見たことがありましたから、それがドイツ館であることがすぐ分かりました。視線を民宿の近くに移すと、梅園が広がり、近くの民家も日本家屋で、ドイツ館だけが浮き上がっている感じがしました。

民宿から見えるドイツ館

民宿から見えるドイツ館

食堂に行くと、大型連休直後のせいか泊り客は6・7人しかいませんでした。炊事場に奥さんがいたので、恩師のことを尋ねると、良く覚えておみえでした。部屋に戻り、出かける用意をしました。荷物は、午後まで預かってもらい、ドイツ館に徒歩で向かいました。午後3時には荷物を取りに戻らなければなりません。しめて6時間で恩師の足跡をどこまで辿ることが出来るのでしょうか?大麻比古神社参道入り口まで5分、右折して高松自動車道に沿って歩くと、ドイツ館とその手前の賀川豊彦記念館の煉瓦造りの建物が調和良く視界に入ってきました。濃緑のキャンバスにこの2建造物だけを被写体にしたら、まるで外国にいるようだと思いました。

9時半のドイツ館開館時間まで少し時間がありました。建物の周りを歩きながらシャッターを切りました。『第九の里』にふさわしくベートーベンの銅像が園内にありました。ドイツの国旗も掲揚されていました。板東俘虜収容所は、四国にあった3収容所を集約して建設された施設でした。今でこそ高松自動車道から車の走行音が聞こえるものの、収容所が建設された当時の辺鄙さは容易に想像できました。そこに1000人ものドイツ人が住んでいたのですから、この辺りは、異国そのものだったのでしょう。

ベートーベン像

ベートーベン像

開館時間になったので、受付で入場券を購入しました。館長がご在室が聞いたところ、すぐ館長室に通していただきました。川上館長は私を待っていて下さったようでした。挨拶を交わした後、私の恩師冨田教授の研究資料、著書『板東俘虜収容所』、ドイツ人俘虜たちの手によるガリ版ガリ版刷刊行誌Die Bracke等を見せてくださいました。また、恩師を偲ぶ人たちの寄稿からなる厚さ1インチもある写真集も手に取ってみることが出来ました。恩師がいかに多くの人たちから慕われていたか、再認識しました。30余年ぶりに恩師の映像に再会できた興奮を隠せませんでした。

Die Bracke(ドイツ館蔵)

Die Bracke(ドイツ館蔵)

コンサートちらし(ドイツ館蔵)

コンサートちらし(ドイツ館蔵)

コンサートちらし(ドイツ館蔵)

コンサートちらし(ドイツ館蔵)

コンサートちらし(ドイツ館蔵)

コンサートちらし(ドイツ館蔵)

2015年訪日シリーズ その1 恩師冨田弘教授の足跡を追う - 鳴門市ドイツ館を訪ねて

Monday, June 1st, 2015
Deutsches Haus Naruto鳴門市ドイツ館

Deutsches Haus Naruto鳴門市ドイツ館

***2015年5月、2年ぶりに日本を訪れました。15日間の滞在中に東京、愛知、萩、鳴門、鎌倉を巡りました。心に残ったことをブログにまとめました。***

Part I

愛知県立大学在籍時の冨田弘教授

大学時代(1970年代)大変お世話になった教授がいました。外国語学部の冨田弘ドイツ語教授。英語専攻の私が教授と初めて接点を持ったのは、大学3年の時、教授のスウェーデン語を受講した時です。「スウェーデン語の動詞は、語尾の語調が歌のように上がります。」「初めてストックホルムに行ったとき、鼻血が出ていることにも気づかないほど寒かった。」と教授が話されていたことを思い出します。

 

その頃、私は一年休学してアイルランドで英語の勉強をする計画を立てていました。翌春、フランス語学科の学生と二人で日本を発ち、夏の間ヨーロッパ各地を旅行する。彼女とは7月頃大陸で別れ、それから一人で秋口までにウエールズからダブリンに到着したいと考えていました。ソ連極東から東欧・西欧に進み、ヨーロッパ西端のアイルランドに8月半ばに到達する大雑把な計画を練り始めたところでした。

教授・学生間の垣根が低かったからでしょうか、教授の研究室には学生が頻繁にたむろしていました。御多分にもれず、私たちもその仲間でした。教授が東ドイツのワイマールに住んでおられたことを知り、私たちの東独における訪問地はワイマールにすることに決めました。欧州滞在経験をお持ちの教授は、私たちの心の大きな支えでした。

翌年、欧州から帰った私たちは教授を研究室に訪ね、ヨーロッパでの体験をお話しました。残念ながら、ワイマール滞在は試みたものの、実現せずに終わりました。鉄道でポーランドからワイマールに到着したのは夕方でした。1時間待ってもタクシーが拾えず、ポーランドで前払いしたお金も旅行代理店 Reisebüroが既に閉まっていたため受け取ることが出来ませんでした。ホテルはどこも満室で、本当に泣き面に蜂状態でした。詮方なく、ワイマールでの宿泊を諦め、私たちはその夜の列車で西ドイツに向かいました。

アイルランドで丸々と太った私は、日本人男性嫌悪症とでも言えそうなほど、同年代の日本人男性を嫌いになって日本に戻りました。。それは、裏返せば、欧州で自分の無知、不甲斐なさに気づき、その自己嫌悪が異性に対する批判を牽引していたのかもしれません。そんな両親には言えないことも、教授には話すことができました。教授は常に私たちの言葉を白黒判断せずに聴いて下さいました。その教授の心の広さが私をあるがままの自分でいさせてくれたのでしょう。教授は私たちに特別時間を作ってくださいました。週に一度教授と井原西鶴の『好色一代男』を読み合わせすることにしました。

大学卒業後も、私は英文科の夜間講義を聴講し続けました。時々、教授の研究室を訪ね、歓談しました。その後の数年は事情あって私は引っ越しを繰り返しました。1984年、教授夫妻を名古屋のご自宅に訪ねたのを最後に、1988年私はアメリカに永住先を決めました。

教授はどこに?

何が引き金だったのでしょうか?私は昨2014年秋、ふと冨田教授のことを思い出しました。以前ヨーロッパの旧友たちをインターネットで検索して、彼らと連絡がとれていましたから、教授の検索にも希望を持っていました。ところが、ネットは私の胸をナイフでグサリと刺したのでした。教授は1988年、私が日本を離れた年に亡くなられていました。享年62歳。あまりにも若すぎました。1グラムの贅肉もついていないスリムな身体。スキーを楽しまれ、いつも溌剌としておられた教授が、平均寿命遥か以前に他界されたという情報は、悪夢そのものでした。

ネット検索を続けていくと、教授が第一次世界大戦中、中国青島で捕虜となったドイツ兵の日本における収容所生活を研究をされていたことを知りました。そして、1917年に徳島県の板東俘虜収容所でドイツ人によるベートーベン第九交響曲の日本初演奏の事実を発表されていたことも知りました。また、教授が亡くなられてから教授の研究をまとめた『板東俘虜収容所-日独戦争と在日ドイツ俘虜』が出版され、教授の奥様が板東に在るドイツ館に教授の研究資料を寄贈されていたことも分かりました。

冨田弘著書

冨田弘著書

第九演奏会パンフレット

第九演奏会パンフレット(ドイツ館蔵)

冨田弘「ベートーベンの第九講演会」のお知らせ

冨田弘「ベートーベンの第九講演会」のお知らせ(ドイツ館蔵)

 

 

あまり知られていないシカゴ - ベトナム人街

Sunday, January 4th, 2015
Argyle Station

Argyle Station

以前シカゴ郊外に住んでいた時は、頻繁に訪れたベトナム人街。第二の中華街とも称されるこの地区はダウンタウンから地下鉄Red Lineを北上。乗車後約20分、アーガイルArgyle駅降車。駅から一歩出れるとそこがベトナム人街。駅から右手(西)に半ブロック歩くとブロードウエイ通り。そこを左折して南に歩いていくとベトナムのスーパーマーケット、レストラン、雑貨屋等がぎっしり並んでいます。

この辺りに住んでいる日系人はベトナム人街で食材買い出しを済ませることが多いと聞きました。スーパーにはベトナム食品だけではなく、日本茶、お菓子、調味料等もあり、お値段は日本食専門スーパーと比較するととてもお値打ち。私はこの辺りに来る時は、しっかり買い出しをして帰ります。

また、ベトナム人街に隣接しているのが1980年にお年寄り専用に建てられた公的アパート、「平和テラス」。私の知人も去年から入居しました。(「平和テラス」については別にブログします。)そこから2・3ブロック南西に歩くと浄土真宗大谷派のシカゴ仏教会Buddhist Temple of Chicagoに突き当たります。シカゴにはもう一つ浄土真宗のお寺があり、この二寺院が長く日系アメリカ人の心の支えになっていました。

帰路、アーガイル駅の向かいにあるChinese Bakeryに立ち寄って、肉まんを頬張り、お土産のお菓子をどっさり買い込む。し・あ・わ・せ、と感じるトキなり。

Rice Noodles with Beef

Rice Noodles with Beef

Buddhist Temple of Chicago

Buddhist Temple of Chicago

『飛行少年』

Sunday, October 14th, 2012

今日は、米国日本占領時に日本に派遣されていたイリノイ州の軍人が持ち帰った物の第2弾として、雑誌『飛行少年』を紹介します。

中部イリノイ州で日本語の古書に遭遇したのは、今回が初めてでした。はっきり言って、びっくりしました。手にした小冊子は大日本飛行協会発行の昭和19年5月号『飛行少年』でした。表紙右肩に「海軍兵学校蔵書」と「寄贈」の朱印。そして、「教官閲覧室」回覧表が貼付されていました。それが、どういう経緯でこの米国軍人の手に渡ったのかは、知る由もありませんが、よくぞ私に辿りついてくれたと、労をねぎらいたい感情が沸きました。

『飛行少年は』の表紙には第七巻第五号と打ってあり、翌年終戦とともに廃刊になったはずですから、8年間しか発行されなかったのでしょうか?

編輯室のメモによれば、「本誌も紙の制限で薄くなった」と書かれています。戦争がますます激化しているのが伺えます。5月号は、「海軍記念日特輯」で、全30頁の前半は世界の最新空母、戦艦、巡洋艦、飛行艇の情報が写真と挿絵入でぎっしりと埋められています。後半は、海鷲(海軍関連記事)5稿、そして、最後の稿は、『江田島海軍兵学校を訪ねて』でした。

江田島の名前は、聞いたことがありました。当地の日本人女性と結婚した男性が、1953年朝鮮から江田島に派遣されてそこで訓練を受けたのだそうです。当時大日本海軍の施設を米国海軍が使用していたのでしょう。その9年前の江田島で若い生徒たちの一日が手に取るように描写されています。その稿を添付します。

Etajima Article P1

 

Etajima Article Page 2

 

 

国民進軍歌

Sunday, October 7th, 2012

先日、某旧家が遺産整理をするというので、出かけてみました。ご主人が数年前他界されてから、奥さんが一人で住んでみえましたが、その方が亡くなられたので、家の中の遺品を遺族が販売したのです。

今まで、多数のそういう家を訪れましたが、今回はとても感動しました。というのは、ご主人が第二次世界大戦の実戦経験者だったらしく、テイニアン島の名入りの下駄や箸箱、日本無条件降伏を織り込んだクッション等が売りに出ていたからです。それ以上に私を驚嘆させたのは、米軍の日本占領時代にご主人が日本で集めて持ち帰った物の中にはっとする物が幾つかあったことです。それを少しずつ書いていきたいと思いますが、今日は、第一弾として『国民進軍歌』を紹介します。

その小さな桜色のハンカチは、ベッドに拡げて置いてありました。舞妓さんの後姿がプリントしてあったので、タダのお土産用ハンカチと思いきや、上半分に『国民進軍歌』の歌詞が刷り込んでありました。遺族の方たちは、まさかそんな歌詞が刷られているとは思わなかったのでしょう。タオルとか枕カバー等は畳んだままになっていましたが、この小さなハンカチは東洋の可愛らしい物としてよく見えるように拡げてあったのです。

Pink Handkerchief from 1940’s

 

この25センチ四方の布切れは、私に思わず『え~っ!』と、声をあげさせてしまいました。存在すら想像できなかったものとの出会いに、また、私の両親の世代が体験した戦争の証を目の当たりにして、唖然としました。即、購入し、家に帰って早速ネットで検索をしました。

『国民進軍歌』は1940年にビクターレコードが販売したレコードのA面の曲でした。さすがユーチューブ。オリジナル版を聴くことができます。その時まで一度も聞いたことがなかったので、終戦後、忘れ去られてしまったのでしょう。異国で、日本の歴史を垣間見る機会を得て、何か言葉にあらわすことが出来ない感慨に耽るのでした。

國民進軍歌 徳山璉・柴田睦陸・四家文子・中村淑子・児童合唱

作詩 光元篤之助  作曲 松田洋平
昭和15年

   この陽 この空 この光
アジアは明ける おごそかに
燃える希望の 一億が
傷痍の勇士、背に負うて
いま踏みしめる 第一歩
使命にこぞる 進軍だ

ハンカチを購入した時、息子さんらしい方(60代後半から70代前半?)とお話をしました。彼も私も直接第二次世界大戦を経験していないので、淡々と遺品について会話が出来ました。終戦後67年、米軍の日本占領が終わって60年。そして、私が米国に移住して四半世紀が経ちました。その間、一度も「以前の敵国の女」であることを思いこさせる会話や事件がなく、また、日本人ですと躊躇なく言えることが出来ました。広い心で生きていくことの大切さを再度噛み締めました。

Verse enlarged