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チコのブック・レビュー 『間宮林蔵}吉村昭著 Rinzo Mamiya by Akira Yoshimura

Thursday, August 25th, 2016
『間宮林蔵}吉村昭著 Rinzo Mamiya by Akira Yoshimura

『間宮林蔵}吉村昭著 Rinzo Mamiya by Akira Yoshimura

何とはなしに、次に日本に行ったら最北端の宗谷岬まで行ってみようと思い立ちました。稚内と樺太に思考が絡むと、浮上したのが、間宮林蔵。私のブック・カフェにあるこの樺太探検者の著書を手にして、一気に読破しました。

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吉村昭が描く間宮林蔵の生涯は、大きく二つに分類される。前半(20代後半から32歳まで)は、林蔵が世に知られる樺太探検家として名を成すまで。後半では、幕府の密命を受けて日本中を歩き回る林蔵を描く。私たちの予備知識は、当然樺太探検者としての彼である。

ヨーロッパ諸国が世界に隈なく進出し、18世紀末には、世界のほとんどの場所の地図が彼らにより作成されていた。その中で、樺太は謎だった。半島か?それとも島か?複数の探検家がそれを確認しよう試みたが、成功しなかった。(その理由は、本書を読んで見つけてほしい。)当時(日本も含めて)世界で、樺太半島説が優勢だった。1808年、間宮林蔵は政府の命を受けて樺太の調査に赴いた。

関東生まれの林蔵は、北海道(蝦夷地)の寒さに閉口し半病人になった。時間はかかったが、アイヌ人の知恵を取り入れることによりそれを克服していた。だが、樺太の厳寒はそれをはるかに超えていた。林蔵の樺太探検はまさに生死を賭けたものだった。樺太北部はアイヌも住まない未踏の地だったが、彼は原住民の叡智を取り入れたながら、樺太が島であることを確認した。

林蔵は樺太北部に留まって大陸の東韃靼へ向かう決心をした。鎖国時代、国を出ることは御法度だったが、彼の好奇心の方が勝った。結果として、当時の韃靼人の様子を記す貴重な資料を作成できた。彼の樺太での功績は大だったが、農民出の林蔵は、幕府からの咎めがあるのではないかと、神経質になっていた。運よくお咎めがなかっただけでなく、彼は役人として昇格した。ここに隠密として日本中を歩いた林蔵が誕生する。

樺太調査から戻った林蔵は、伊能忠敬に天文学に基づく測量法を学んだ。そして、彼は生涯隠密として、ゴロブニン事件、シーボルト事件、竹島事件等に直接、間接的に関わった。健脚を使って、鹿児島、日本海側も歩いた。変装の名人だったらしく、隠密としてA級だったのだろう。

吉村昭は間宮林蔵の生涯を坦々と語る。その語り口はドライに思えるが、林蔵の人柄をしっかりと抑えている。林蔵の出自から来る神経質な面が局所に現れる。彼の観察眼の鋭さもいたる処にみられる。これは、自分の足で日本全土を踏んできた経験に拠るところが大きい。本著から18世紀末から黒船到来までの日本近海の状況が手に取るように分かる。江戸後期・末期の日本史を知る書物に、是非加えていただきたい一冊として推奨する。千津子

チコのブック・レビュー 『遠い対岸』“ある帰米二世の回想”山城正雄著 To-oi Taigan by Masao Yamashiro

Thursday, July 21st, 2016
『遠い対岸』“ある帰米二世の回想”山城正雄著 To-oi Taigan by Masao Yamashiro 1984

『遠い対岸』“ある帰米二世の回想”山城正雄著 To-oi Taigan by Masao Yamashiro 1984

[1916年、ハワイのカウアイ島で生まれた著者は、小学校2年から16歳までを沖縄で過ごした。その後、ハワイに戻り、従兄の経営するパイナップル畑で働き始めた。色々な仕事に従事し、ホノルルを経てロサンジェルスに渡った。戦争が始まり、収容所に送られた。そこで、有志と同人誌を作った。米国に於ける日本人、日系人を観察して来た著者が回顧するアメリカにおけるあまり知られない日系人グループの移民史。1970年から邦字新聞『羅府新報』に連載したコラムを一冊の本にまとめたもの。]

幼い頃喋っていた言語は、違う言語環境に入ると失われてしまうことはよく知られている。著者は7歳から9年間英語圏を離れた。16歳でハワイに戻った時、英語は完全に喪失していた。言葉の壁は、ハワイに戻った著者に屈辱と羞恥心を植えつけ、久しく日系人社会から出る勇気をもぎ取った。

著者は、生きるために手に入る仕事なら何でもした。皿洗い、工場勤務、ドライドックのかんかん虫、ハウスボーイ、ヤードワーク、ウエイター、野菜売り、等。自活するだけでも大変なうえに、沖縄にいる弟の学費の仕送りもした。当時のホノルルの日系銀行は、ハワイの日系一世に対し、冷淡だったと著者は観察している。異国で働く日本人駐在員たちは、日本人移民を見下す傾向があったのだろう。

著者が描く当時の支那人を扱う章はとても興味深い。彼らは、米国移住者の先駆者的存在で、彼らの従事した職業の多くを日本人が受け継いだ。どうして中国人コミュニティが衰退していったか?日系一世のピクチャーブライド現象に新しい視点が生まれる。日系人が中国人から引き継いだ職業を、今度は移民後発の韓国人や他のアジア人が引き継いでいる。経済社会の縮図をみているようだ。

著者は移民一世は、正式なルートで移住してきた日本人と、密入国者からなっていたことを記している。共に、二世の陰で生きた世代(権利がなかったため)ではあるが、後者はよりしたたかさを有し、米国開拓史の「西部やフロンティアを生きた人々を彷彿させる」と述べている。米国移民一世を十把一絡げで考えない方が良いだろう。

日系二世の構造は、複雑だ。アメリカ生まれでアメリカ育ちの「純二世」。アメリカ生まれで、日本で教育を受けた後アメリカに戻った「帰米二世」。このグループを英語の出来る・出来ないにより分別することも可能である。加えて、アメリカにいる一世が日本から招いた「呼び寄せ二世」。市民権のある二世は、一世の事業の成立に不可欠だった。彼らの一部は、アラスカや南米へも移住した。

収容所生活を描いた章は、特に注意を払って読み進むべきだと思う。狭いスペースに詰め込まれた、多種多様の背景を持った日系人。人間関係の確執が噴き出る。自我が向き出しになり、派閥ができる。人を統制することの難しさが露呈する。

私にとって一番印象に残るコラムは、「日本刀も哀しい」章の中の『日本刀の光で奇襲わかる』だった。終戦間近。「玉砕」を決意した日本軍人。月夜の晩に武士の魂たる日本刀を挙げて敵に襲い掛かる。日本刀が月光で光り、それが連合軍に日本軍人の奇襲を教えた。この稿は、日本人の美徳を重んじる姿を痛烈に皮肉っている。日本を愛する著者であっても、太平洋を越えた“対岸”に住む者には、“井戸の外”から武士の美徳を観察することが出来るのだろう。

著者は、山崎豊子著『二つの祖国』のモデルになった伊丹明について多くのページを費やしている。日英両語に精通しているがゆえの悲劇。何という運命の皮肉。同じ帰米二世として、また、本人と知己のあった者として、著者の思いは複雑だ。異国に住む者にとって、祖国とは何か?を真剣に考えさせる説得力がある。『二つ…』と併せて読まれることをお薦めする。

最近読んだサンケイ新聞電子版に、日系人の日本観について面白い記事を見つけたので、ご紹介する。

『….日本人と日系米国人との間には亀裂があります。日本に住んでいる人は、日系米国人は親日であると思っているようですが、彼らは1942年の日米開戦後の日系人の強制収容所行きについては、日本が無謀にも真珠湾を攻撃したせいで日系人が大きな迷惑をこうむったと信じているので、一般的に親日的ではありません。また、最近の新一世が裕福な生活をしていることも、苦労して財や地位を築いてきた旧来の日系人を反日にする要因にもなっているようです。』(7.4.2016 サンケイ掲載[目良浩一の米西海岸レポート(3)])

私が米国移住して約30年になる。久しい昔に米国に移住してきた日本人の子孫である三・四・五世の日系人と、日本が経済的に立ち直ってから渡米した新一世(及び日本の駐在員)との関係は他のアジア諸国民と比べて薄いように感じられる。米国史で特異な悲しい経験を持つ日系人が、若い世代に先代の遺産を継承していくことが必要であることは、言わずもがな。その活動は続いている。だが、米国社会に於いて、特に現代のようなレーシャル(犯罪者)プロファイリングがのさばってきている時に、日系人は『モノ申す』と米国民に啖呵を切っているのだろうか?それができていない一因は、日系人の後裔と新一世たちとのつながりの薄さではないかと思う。

本著はLA在住の日系人向けに書かれた新聞稿であるため、一部読解しにくい表現や耳慣れないカタカナ言葉の頻出で、読みずらいことがあるのは否めない。冗長な文章もまま見受けられる。しかし、著者の洞察力と観察眼には読者を唸らせるだけのものがある。彼の描いた現象は、現代社会に多くの共通項を見出すことができる。地球レベルで国境を越える人口が増加している昨今。ビジネスのため。生きるために。結果として、第2、第3の祖国を持つ人たちが多くなった。祖国とは何か?米国に住む日本人・日系人必読の書。日系人の日本人観と日本人の日系人観の差を考えてみよう。そこから派生して、現代の難民問題に目を向けてみよう。千津子

 

チコのブック・レビュー 『徳川慶喜家の子ども部屋』榊原喜佐子 Book by Kisako Sakakibara

Friday, July 1st, 2016
『徳川慶喜家の子ども部屋』榊原喜佐子 Tokugawa Keiki-ke no Kodomo-beya by Kisako Sakakibara

『徳川慶喜家の子ども部屋』榊原喜佐子 Tokugawa Keiki-ke no Kodomo-beya by Kisako Sakakibara

最後の将軍徳川慶喜の孫としてうまれた著者、榊原喜佐子(1921-2013)の回顧録。7歳からつけていた日記の抜粋を織り込みながら、小石川第六天町で過ごした少女時代、姉高松宮妃殿下の結婚、お転地、女子学習院、戦時中の思い出等を綴る。

著者は少女時代を、東京小石川の第六天町にあった3000坪のお屋敷で、50人の使用人と共に過ごした。そこには皇族・華族階級の人々が出入りした。家庭教師がいて、夏は避暑地で過ごした。外出時には必ず付添人がついた。特殊用語、行事、慣例の渦巻く生活。そして、彼女の自由行動範囲は、おおよそ敷地内に限定されていた。父親 を幼くして亡くした著者が、天真爛漫に少女時代を過ごすことができた背景には、一つ違いの妹の存在があった。

著者の育った環境がいかに庶民とかけ離れていたかを考えてみよう。同じ大正生まれの私の母を例にとってみる。愛知県三河の小さな町に5人兄弟の長女として生まれた母は、年端も行かないうちから、子守りをさせられた。「背丈が自分とあまり変わらない弟や妹をおぶっていたから、背が伸びなかった」と、母が言っていたのを思い出す。当時、女子は小学校にあがる頃には親を助けて家事、和裁、畑仕事をした。お見合い結婚で嫁いだ後は、舅姑に尽くした。「明治と昭和の板挟みの大正生まれは、損。子供時代は親の言いなり。昭和生まれの子どもには、威張られる。」が、母の口癖だった。

著者と彼女の妹はお抱え運転手付き自動車で女子学習院に通った。1930年代のことだ。彼女たちにとっては、市電に乗ることが“冒険”だった。当時自家用車で通学した子女が日本には何人いたのだろうか?私の母は40半ばで運転免許を取得して初めて自家用車を手に入れた。1968年のことだったと思う。「テレビで車に乗っているアメリカ人を見ると、とても羨ましかった。まさかマイカーが持てる日が来るとは思わなかった。」母は何度もそれを口にしたから、余程嬉しかったのだと思う。

使用人に傅かれ、お店で物を買えばお金を払わねばならないことも知らなかった著者は、まさに別世界の住人だった。だが、違った環境の中で育った彼女が読者に好感を与える理由は、彼女の素直さゆえだと思う。小さい頃、お転婆で木登りが好きだった。学校で立たされたこともあった。満州事変が始まると、「満州に行って兵隊さんたちと一緒に戦いたい」と切実に思った。太平洋戦争が勃発すると、必ず日本の勝ち戦になることに微塵の疑いも挟まなかった。疎開先での失敗談、敗戦後の鬱病罹患、等を臆することなく書き連ねている。

戦後華族制度が廃止され、彼女は平民になった。巻末で著者は自分の躾が、「戦後50年経っても身内に生きているのを感じる」と述べている。続けて、「人にかしずかれ労せずして暮らしていける身分にある者には当然の義務というものがあって、自由は望んではならない、常に人への配慮を忘れてはならない、自分を律することに厳しくなければならない、と思っている」とも。本著の中で彼女はお世話になった多くの人に感謝の意を表している。

最後の将軍徳川慶喜を祖父に持った著者は、国に自分のすべてを捧げることを潔しとした。彼女は、女子学習院時代に大政奉還を研究した。国の命運を個人のそれより前に置くことをその時脳裏に刻んだのではないだろうか?それが、彼女の日本への限りない祖国愛を産んだのだと思う。戦況が悪化し、敗戦色が濃くなった昭和19年秋、彼女の夫は言った。「我々は、悠久の祖国の中に生きる。今はそれしかない。」「我々は祖国のために死ねばよいのだ。」著者は、夫と共に祖国のために殉死する覚悟があった。その日の日記の結びは、「そうだ、死のう。今の代に苦しみの中にある祖国の姿をじっとみつめつつ、我らはただ死ねばよい。」

彼女は、与えられた境遇の中で、懸命に生きた。私はその生き様に共感する。千津子

チコのブック・レビュー 『ベラルーシの林檎』岸惠子著 Berarushi no Ringo by Keiko Kishi

Saturday, May 28th, 2016
『ベラルーシの林檎』岸惠子著 Berarushi no Ringo by Keiko Kishi

『ベラルーシの林檎』岸惠子著 Berarushi no Ringo by Keiko Kishi

岸惠子さんが1993年にまとめたルポルタージュ・エッセイ。

パリで懇意になったユダヤ人を通じ、イスラエルに興味を持った著者がパレスチナ問題に触れる前半。後半は、彼女がテレビ局のレポーターとして独立したばかりのバルト3国(リトアニア、ラトビア、エストニア)を取材した時の稿。自分史に絡めて、動く国境と日本を見つめる著者の力作。

ユダヤ人と日本人。とてつもなくかけ離れたように思える二つの国民を著者は熱い目で観察し、共通点や相違点を考察する。二千余年も世界に彷徨したユダヤ人。第二次大戦後、不死鳥のように経済大国を築いた日本人。著者は、ユダヤ人を日本人に投射する。

彼女がユダヤ人を表現するときによく使う言葉がある - 「アンコミュニカビリティ」(意思不疎通性)。世界に拡散しているユダヤ人がそれぞれの社会で受け入れられなかったり、誤解されたりしている底流に、アンコミュニカビリティがあると言っている。

24歳で日本を離れ、パリに飛んだ著者。自分の中に在るアンコミュニカビリティを意識している。

「日本という母国を去ってからの長い年月のなかで、私は二つの国の間で、デラシネ[切り離]されたラシーヌ(根)を私流にはびこらせてきた。けれどその根は、パリにも東京にも居心地よく繁殖できる筋合いのものではなく、たとえばパリ・東京間の中に浮いたジェット機の中の無国籍地帯に、やっと自分らしいテリトリーを感じて安堵したりする。」

「二つの国籍を持ち、立派なパスポートや身分証明書を持つ身の私が、… 誤解や屈辱矢差別や、耐えがたいアンコミュニカビリティにさらされてきた、魂の在りかが、遠い原点で彼ら[ユダヤ人]とつながっているように私は感じるのである。」

(だが、ユダヤ人を100%理解できないことが、彼女のジレンマでもある。)

大陸では国境は動く。1990年代前半まで、バルト3国はソビエト連邦の一部だった。ポーランド辺境の住民は有史以来幾度となく国籍が変わった。世界中で固定した国境を持っている国は稀である。日本は、その稀有な1国。国境を意識しないため生まれた国民性の一部は、世界の大勢の中では通用しないことがある。著者は、多くの日本人がそれに気が付いていないと感じている。日本を無条件に愛する彼女は、それを危惧する。

読後余韻を残した2語 - アンコミュニカビリティと動く国境。当初、私の中で共通性が感じられなかった言葉が、時間を置くと摺り寄って来た。

動く国境を体験していない日本人は、無意識のうちに擬国境を築いているのだろうか?そして、それが他国民とのアンコミュニカビリティを誘因しているのかもしれない。言い換えると、アンコミュニカビリティは、自分の中に構築された国境に一部起因する可能性があるのではないのだろうか?そう仮定すると、内なる国境を動かすことにより、意思疎通を向上できる望みもあるということなのかもしれない。  千津子

チコのブック・レビュー 『孫文の女』西木正明 Masaaki Nishiki

Monday, April 11th, 2016
『孫文の女』西木正明 Masaaki Nishiki

『孫文の女』西木正明 Masaaki Nishiki

『孫文の女』には次の四作品が収録されている。

「アイアイの眼」

「ブラキストン殺人事件」
「オーロラ宮異聞」

「孫文の女」
この4編に明治生まれの5人の日本人女性が扱われている。そのうち「アイアイの眼」と「オーロラ宮異聞」の主人公2人は異国に住んだ。当ブック・レビューは、「アイアイの眼」に焦点を合わせてみる。

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田中イトは熊本県島原の貧しい漁村に生まれた。16歳の時、女衒に連れられてシンガポールに行き娼婦になった。その後、インドのボンベイで暫く働き、マダガスカル北端のディエゴ・スアレズ(現アンツィラナナ)に到着したのは22歳の時だった。1904年12月、ロシアのバルチック艦隊が極東に向かう途中、故障艦修理のためマダガスカルの小島に寄港した。イトは、日本人のレストラン経営者にロシア艦隊の秘密を聞き出すよう依頼された。

イトは所謂「からゆきさん」だった。この本を読むまで、私はそういう通称があることも、知らなかった。「アイアイの眼」と「オーロラ宮異聞」両編に登場する女性がともに熊本県天草諸島出身であったことに興味を持ち、調べてみて、突き当たった言葉だった。

からゆきさん」(唐行きさん)は、19世紀後半に東アジア東南アジアに渡って、娼婦として働いた日本人女性である。これらの女性の多くは熊本県天草諸島の出身であると言われている。(Wikipedia)

ある情報筋によれば、5万人ともいわれる女性が東南アジアを中心に海外の女郎屋で外貨稼ぎをしていたという。

著者はインタビューの中で、からゆきさんの島原地方出身者が多かった理由として、「聞く話では、キリスト教の影響がありますでしょう。西欧人に対しての忌避感があまりないという」と語っている。宗教が人に与える影響の一例と言えよう。

100余年も経った今でも、日本からシンガポール、ボンベイ、マダガスカルまで行くのは大変である。イトは、日本人の貿易拠点のある場所について廻った。マダガスカルに着いてからも、機会があれば知り合いの居るタンザニア沖のザンジバルまで行こうと考えていた。全長20メートル弱のダウ船で。

私は1970年代半ば一人でアイルランドに自費留学した経験がある。出発前、バイトをして旅費と学費を稼いだ。ダブリンでは、オーペアをした。帰国後、働いて借金を返済した。でも、イトさんの行動力の前には、平伏するのみ。

「オーロラ宮異聞」のオキクも7歳で孤児になり、朝鮮に売られ、満州各地を転々としながら、美貌と利発さを武器に馬賊の長にまでなった。関東軍とロシアの仲介に一役買って出ることになる運命だった。あの大胆さとしたたかさは、小気味よいとしか表現のしようがない。

不幸な環境ではあれ、こういう日本女性たちが、日本が開国して間もなくいたという事実。多くの読者は、それに驚きと頼もしさを感じるのではないだろうか?

イトの話に戻る。借金返済のために女衒に売られた彼女。シンガポール時代、その返済をしながら日本の家族に送金をした。家族からは何の連絡もなかった。自分は「口減らしのために売られた。」「もう親も親戚も、大日本帝国も関係なし」と割り切ったつもりだった。それでも、遠いマダガスカルの浜辺でインド洋を航行するダウ船を見ていると、その船がインドまで行けるならば、彼女を日本まで連れ帰ってくれる“はずだ”と、思ってしまう。また、日露戦争で善戦している日本を、誇りに思ったりもした。やはり、身体に流れる血は真っ正直だ。

若いロシア将校は、イトを無害の娼婦だと思ってバルチック艦隊の情報をペラペラと喋ってしまった。まさかそれが日本海軍まで届こうとは、夢にも思わなかったことだろう。昔も今も、そのあたりはあまり変わっていないのかもしれない。世の男性たちへの良い教訓と言えるのでは?

アイアイはマダガスカルだけに住む、目の大きな猿。小学校しか出ていないイトではあったが、機転を利かせてロシア将校からバルチック艦隊に関する機密情報を得た。著者は、それを眼光の強いアイアイの眼に例えたのだろう。作品の〆に、70年代に流行ったNHKの童謡「アイアイ」を引用したところは、憎いばかりだ。

著者のインタビューがネットに出ている。こちらも合わせてご照覧あれば、より理解が深まると思う。からゆきさんに興味のある読者は、山崎朋子著の『サンダカン八番娼館 – 底辺女性史序章』を読まれることをお勧めする。また、映画画監督今村昌平氏がマレーシアで会った元からゆきさんを追ったビデオの視聴も大いに参考になると思う。この作品は、貧困だけではなく部落民問題にも触れている。21世紀になった今も、売春や差別は、世界のいたる処で蔓延している。その意味で、本書に登場する女性たちにスポットライトを当てた西木氏に拍手を送りたい。千津子

チコのブック・レビュー 『キッチン』吉村ばなな Banana Yoshimura

Sunday, March 20th, 2016
『キッチン』吉村ばなな Banana Yoshimura

『キッチン』吉村ばなな Banana Yoshimura

幼くして両親を亡くした桜井みかげは祖母と一緒に暮らしていた。大学生の時、その祖母も死んだ。田辺雄一と彼の母がみかげを引き取った。三人で暮らす間、みかげは独り立ちする決心をする。彼女が田辺家を出るとまもなく、雄一の母が亡くなった。二人の若者の死に対する恐怖と孤独との葛藤を描いた作品。

田辺家でみかげが過ごした半年間に、彼女は家族愛を再発見した。みかげにとって雄一の母の死は、祖母を失くしたときの衝撃より累乗的に大きかった。

<訃報を聞き、雄一に会いに行くみかげ。バスを降りて彼のアパートに向かう。>

“足を進めることを、生きてゆくことを心底投げ出したかった。きっと明日が来て、あさってが来て、そのうち来週がやって来てしまうにちがいない。それをこれほど面倒だと思ったことはない。きっとその時も自分が悲しい暗い気分の中を生きているだろう、そのことが心からいやだった。胸のうちが嵐なのに、淡々と夜道を歩く自分の映像がうっとうしかった。”

作品全体に流れる無気力。虚脱感。感情も声量も七割以下に控えたみかげの意識の流れ。彼女が描写する水面下の物憂げな黄昏色の世界に読者はどっぷりと浸かる。

感情が迸るのでもなく、身体を震わせて号泣するでもない。読者の潜在意識の中にしかなかったものをみかげが言語化すると、そこにほのかな灯りがともる。読者は、そんな微熱に作品中何度も何度も触れる。読了後、蓄積された熱量が勝利感とも言える安堵感に変わっている。不思議なことに、読者はその“勝ち“を覚えている。勝利の余韻は強い。

心が沈む時。喪失、敗北、失敗、羞恥、嫉妬。諸々の負現象に遭遇する時、もう一度手にしたくなる。あの時感じた微かな温もりを探すように。愛蔵書的存在。そこにこの作品の持久性があるのではないだろうか?

千津子

チコのブック・レビュー 『ガダラの豚』中島らも Ramo Nakajima

Tuesday, March 8th, 2016
『ガダラの豚』中島らも Ramo Nakajima

『ガダラの豚』中島らも Ramo Nakajima

アフリカの呪術医分野の研究に携わる大生部(おおうべ)教授は、テレビの特別番組の取材を兼ねて、家族と共にケニアへ向かった。一行は、タミナタトゥ村で大呪術師バキリと出会う。バキリは8年前その地で死んだはずの娘を呪具にしていた。娘を救い出して日本に連れ戻した大生部一家とその周囲に不気味な事故が相次いだ。

著者が本のタイトルを『ガダラの豚』とした意図を考えてみた。ガダラの豚は新約聖書のマタイ伝の一節に現れる。

イエスがガダラ人の地に着くと、悪霊につかれた二人が墓場から現れた。彼らがおびただしい豚の群れに入ると、群れ全体が、崖から海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。

本書は三部からなる。大生部の妻が、新興宗教(悪霊)に罹り洗脳された章にこれを引用していることから、著者はガ・豚を愚かな自殺行為をする民衆としたのではないだろうか。呪術は一般的に未開の土地に存在するような印象を与える。だが、悪霊は、時代や地理的位置にかかわらず、存在するということであろうか。

大生部教授は、「呪術は集団におけるホメオスタシス(精神的均衡)達成のための機構」で「実際的効果がある」と言う。人の心は、常に光(陽・楽しみ)と影(陰・苦しみ)の間で揺れ動いている。この二極性は複雑にもつれ合う。プラスがマイナスに変わる。知ることにより、苦から楽に移行できるかとおもうと、失うものが大きい。ここにバランサーとしての呪術登場。有史以来、呪術が存在するのは、そのためである。

読者をぐいぐいと引っ張っていくストーリー展開。特に、登場人物の交わす会話は、宗教、医学、言語、哲学等、多岐にわたり、高レベルの洞察力を持つ。それが、この作品に一層の重厚さを加えてるように思える。娯楽性の高い作品。お奨めです。千津子

チコのブック・レビュー 『江戸っ子芸者一代記』三部作 中村喜春 Kiharu Nakamura

Tuesday, March 8th, 2016
『江戸っ子芸者一代記』中村喜春 Kiharu Nakamura

『江戸っ子芸者一代記』中村喜春 Kiharu Nakamura

中村喜春(なかむら・きはる)[略歴・草思社]

1913年(大正2)年銀座生まれ。2004年没。16歳で新橋の芸者となり、お座敷をつとめながら専門学校で英語を習得。海外の著名人の接待や、戦後の進駐軍との通訳で活躍。1956年アメリカに渡る。オペラのコンサルタントをするかたわら小唄や長唄など日本の古典芸能を教え、コロンビア大学等で東洋哲学の講義もしていたが、ニューヨークで晩年を迎えた。

[青春篇]

芸者に憧れ、その道で芸を磨き、東京で唯一の英語の出来る芸者として売れっ子となった喜春。ある時、きっぱりと花柳界を去った。外交官と結婚し、インドへ向かう。1942年秋日本に戻った。

[戦後篇]

ビルマに発った夫の留守を預かり、大黒柱として家族を養うために奮闘。戦時中は疎開を繰り返し、戦後は語学力を活かし、通訳等の仕事もした。

[アメリカ篇]

日本社会の学歴偏重・世間体第一志向に耐えられなくなり、1956年渡米することで心機一転。実力主義のアメリカ社会で、彼女は自分を取り戻していった。

著者の魅力は、旺盛な好奇心と比類ない向上心に裏付けられた行動力だと思う。幼くして芸者になることを決め、芸の習得に打ち込む。外国の名士と話したい一心で、英語を修得。家族のために、ビジネスを始める。オペラに興味を持てば、とことん研究。彼女は、あらゆる分野で、プロに徹した。その過程で、彼女は積み木を載せていくように人格を構築していった。与えられた環境の中で、常に全力投球の姿勢を崩さなかった。

後年、彼女は言う。「あたしの一生は『雪だるま人生』」だったと。転がるほどに雪で大きくなり、その雪が彼女を守り役立ってくれる、と。言い得て然り。前向きに生きた魅力的な彼女の周りには、人が集まった。「毎日日の丸を背負っているみたいな使命感で」民間大使を続けた中村喜春さんに、エールを送りたい。

彼女は、アメリカ夫人の中に、“芸者”を見つけた。「アメリカの中流以上の奥様方の様子を見ていると『まるっきり芸者だなあ』と思います。彼女たちは、つまらないパーティにならないように、『売れっ子の芸者』のようにどの人もしらけさせないために、お客様のあいだをヒラリヒラリと飛びまわります。」これが彼女の定義する芸者。彼女がアメリカでアットホームに浸れた所以である。

恋あり、冒険あり、家族との軋轢あり。新橋の芸者口調で彼女の生き様を紹介してくれる喜春姐さんの『江戸っ子芸者一代記』、楽しめること、請け合いです!千津子

チコのブック・レビュー 『最後の留学生』大戦下米国留学生始末記 村田聖明 An Enemy Among Friends by Kiyoaki Murata

Friday, February 19th, 2016
『最後の留学生』大戦下米国留学生始末記 村田聖明

『最後の留学生』大戦下米国留学生始末記 村田聖明

兵庫県の地主の長男として生まれた村田青年は、1941年から足掛け7年をアメリカで過ごした。1941年6月、18歳の彼は、大伯母を頼って桑港(サンフランシスコ)に到着した。6ヶ月後、真珠湾攻撃で日米開戦になった。加州内地への自首移転、アリゾナの収容所生活を経て、1943年シカゴで勉学を開始した。文学士・修士号を取得後、1948年日本に帰国した。

彼の渡米目的は、「自分で稼いで勉強する」こと。即ち、アメリカで苦学して学位を取得することだった。アメリカに渡るためには、農場経営をする大伯母に保証人になってもらうより手はなかった。だが、できれば米国に到着次第、仕事を見つけたかった。だから、桑港の入国管理所で、第一種学生(本人・親類縁者に扶養能力があるため、就労できない)に指定された時は、たいそう落胆した。運命のいたずらと言うべきか、収容所に送られてから、大伯母からの財政援助が得られないとして、働ける身分に変更してもらった。最終的には、大学院の授業料は100%自力で稼いだ。

彼が米国留学を望んだ背景に、上海の東亜同文書院に留学を決めた親友の影響があった。「君が上海へ行くなら僕はその七倍も遠いアメリカへ行ってみせる」意気込みがあったと、彼は述べている。私は、1970年代にアイルランドに留学した経験がある。私の場合も、デンマークに向かう友人に張り合った記憶がある。同輩の与える影響は、大きい。

第二次世界大戦中の日系人の内地拘留については、色々な書物を読んでいたが、本書で初めて“自首移転”をした家族の話を聞いた。海岸から75マイルまでが第一軍事地域、75マイルより内地は第二地域に指定されていた。著者の大伯母と従業員たちは、第二地域に近い第一区域に住んでいた。「自主的に奥地に移動すれば収容所に行かなくてよい」と言われていたので、引っ越しをした。それにも関わらず、3か月後には、アリゾナ州のポストン収容所に送られた。当時の立ち退き命令が流動的だったことがわかる。

著者は当初2年近くを、カリフォルニア及びアリゾナの収容所で多くの日系人と生活を共にした。その頃の、彼の日系二世に対する意見は、興味深い。

1943年5月、彼が勉学のためシカゴに行った時、その400万都市には、日本人が200人しか住んでいなかったらしい。殆どのシカゴ住民は、日本人に会ったこともなかった。そのため、戦争中、西海岸の日系人が遭遇したような経験をすることがなかったのは、幸運であった。彼は、大学のキャンパスで、また、雑誌等で彼の意見を発表する機会があれば、積極的に投稿したりスピーチしている。堅固たる信条の持主であることが明白だ。

著者はあとがきの中で、本書を手掛けた動機について述べている。「あの太平洋戦争中、祖国が敵として戦うアメリカという国で、一人の日本青年がいかに自分を失わずして生き抜いていたかを伝えることであった」と。強い渡航目的があった。自活できるように、就労許可を得るための努力を続けた。断られても、断られても、敵性外国人の入学を許可してくれる大学を探し続けた。日本人のいないキャンパスに一人で踏み込んで行った。学業に一意専心した。

著者の留学体験記と比較して、私の留学の生ぬるさを心痛するばかりだ。特に、留学以前の日本に関する基礎知識が足りなかったことを悔いる。しかし、これを教訓にして若い世代を育てるよう尽力したいと希う気持ちが強まった。千津子

チコのブック・レビュー 『村の名前』辻原登 Noboru Tsujihara

Wednesday, January 27th, 2016
『村の名前』辻原登 "Mura no Namae" Noboru Tsujihara

『村の名前』辻原登 “Mura no Namae” Noboru Tsujihara

「よく分からなかったけど、面白かった。」と言う本は、沢山あります。でも、もう一度読んでみたいと思う本は珍しい。『村の名前』は、別格だった。再読した。それも、じっくりと。

著者の言う「村の名前」は桃源村。そう、陶淵明の『桃花源記』で語られる、架空の理想郷。

昔、漁師が迷って外界から隔離された村に入った。そこでは、何百年も前に戦乱を逃れて住み付いた人たちが、幸せに暮らしていた。桃花が村を包み、鶏や犬の鳴き声がのどかさを象徴する。村人たちは、漁師を歓迎した。数日滞在後、漁師は暇を乞う。村長が、村のことは口外無用と依頼して、送り出した。漁師は、帰り道に印をつけて、町に戻ると太守にその村のことを話した。太守は人を派遣して探させたが、誰も桃花源を見つけることはできなかった。

本著の舞台設定は、1990年前夜。日本の商社マン橘が、卸業者加藤の供をして、中国に行った。藺草の畳表を廉価で製造できる工場を探し、買い付けをするためだった。湖南省の長沙から現地人数人と、山奥の村に向かった。案内された所は、桃源県桃源村だった。村の要人は、連日鶏肉や中国酒で橘たちを歓迎する。彼らは、日本の資本で村を観光地化する計画を練っていた。肝心の、橘たちの目的である藺草工場は、お話にならないくらいひどいものだった。村は理想郷にほど遠く、彼らが到着した翌日、女性の死体が見つかった。橘は、歓迎会で料理を運ぶ女性に惹かれた。最後の饗宴で、犬肉が出された。橘は不本意ながらそれを食した。- 彼は、‘桃源界’に足を踏み入れた。

読者は、巧妙な描写にワクワクしながらページをめくる。しかし、‘煙に巻かれた’読後感がある。

桃源村に着くまでにも、橘の幻覚の兆候はあった。神出鬼没の西瓜売り。歪む景色。耳に纏わりつく不思議な微音。平和(?)の象徴的犬肉を食べたことにより、橘は『村の名前』版桃源郷に入る。そこは、時空を超越した一種のパラレル・ワールドだった。10才の少年がいる。同時に老いた83才の元少年もいる。川の土手が、橘の故郷の揖斐川のそれと交錯する。村の脱出計画を立てている、好きになった中国女との交わり。奥美濃の実家の庭にあった花盛りの桃の木の下で、女が赤ん坊を抱いて立っていた。近づいてみると、赤ん坊は橘自身だった、、、

私なりの解釈をしてみた。橘は、桃源郷での経験(幻覚?)を通して、子供から大人に成長したのではなかったか?私の、読み込み過ぎかもしれない。あなたは、どう思われますか?

千津子