Archive for June, 2015

2015年訪日シリーズ その2 日本の印象

Wednesday, June 10th, 2015

2年ぶりの訪日印象を次の4枚の写真に集約してみました。

  • 礼儀正しい日本人

コンビニの店員さん、駅員さん、通りすがりの主婦。大声をあげる人はなく、道を尋ねると懇切丁寧に教えてくれる。次の写真が礼儀正しい日本人を象徴しているように思いました。

岡山駅、徳島行マリンライナーの車掌さん

岡山駅、徳島行マリンライナーの車掌さん

  • 省エネ追及

今回特に気が付いたのが『音姫』こと排出音消音機器。空港、駅、レストラン等の公衆トイレに多くみられました。

以下、ウィキぺディアの説明。主に女性用トイレ内の個室に設置される。音を発生させることで、排便・排尿や生理用品を交換する時、および衣服をずらした時などに発生する音(これらの音を以下「排泄音」という)をマスキング(より大きな音で隠すこと)するために用いられる音響機器の一種である。

こういった装置の生まれた背景には、日本人の特に女性に見られる自分の排泄音を他人に聞かれるのを嫌う羞恥心があげられる。擬音装置が開発される以前は、排泄音を隠すため、排泄時に水洗トイレの水を流す(場合によっては個室を使用している間中水洗レバーを倒して水を流しっぱなしにする)人がおり、こと多くの人が利用する公衆トイレでは無視できない水資源の無駄遣い、ひいては施設の維持コスト増加の要因ともなっていた。擬音装置はこうした水の無駄遣いを防止し、また経済的負担を軽減するため、水を流して音を消す行為を代替させる目的で開発された。こうした意識は日本特有であり、外国において排泄中の音が他人に聞こえることを恥じたり、それに伴う“音消し”行為はほとんど見られない。

Otohime [Wikipedia]

Otohime [Wikipedia]

確かに米人はトイレ内の音を気にする人は少ないように思われます。アメリカでの職歴27年で、トイレの二度流しをした人は一人しか知りません。アメリカで『音姫』がヒットするとは考えにくいですが、節水面では見習うべきだと思います。アメリカのトイレは一度設置したら何十年もそのまま。進化がありません。でも、我が家は築25年。そろそろ替えようかしら?

  • 盆栽の国

名古屋城でツツジの盆栽が展示されていました。思わず「うわぁ~、綺麗!」が飛び出す。日本は、つくづく盆栽のような国だと思います。限られたスペースの中で、至高の美を追求する。いつまでも、輝く祖国であって欲しい。

名古屋城の盆栽ツツジ

名古屋城の盆栽ツツジ

  • 緊急用ホイッスル

東京の友人が教えてくれました。100円ショップで色々な笛を売っているので、各部屋に一つ、バッグに一つと幾つも取り揃えていると。これはしたり、と私も2つ買いました。東日本大震災の記憶はまだ生々しく、日本は国を挙げて将来の非常時に備えている。竜巻の恐れはあるものの、イリノイに30年近くも住んでいる私は自然災害に対しても緊迫感に欠ける。子供・友達にも一つずつ持たせた方がいいと思う。1ドルで生死が分かれるかもしれない。で、即実行。アマゾンで5個入りパックをオーダーしました。

Emergency Whistles at a 100-Yen Store

Emergency Whistles at a 100-Yen Store

日本、色々教えてくれてありがとう。

 

クレイグ・ハリスさんに贈る感謝の言葉 Words of Appreciation for Mr. Craig Harris

Tuesday, June 2nd, 2015

Certificate of Appreciation C Harris

5月5日から日本に行っていました。3日目の2015年5月7日、Facebookでクレイグ・ハリスさんの訃報に接しました。彼は、私のブック・カフェに沢山の和書を寄贈してくださった方です。今日は、ブログで彼に感謝の言葉を贈ります。

ハリスさんとはシカゴ仏教会を通じて知り合いました。2011年夏のことでした。ハリスさんが仏教会にメールをしました。- 健康上の理由でこれまで営んできた和書ネット販売を辞めることになりました。しっかりした目的を持った人に手元の本を寄付したい。 - と。ちょうどその半月程前、私はシカゴ仏教会が開催したブック・セールで「もし日本語の本が売れ残ったら、それを私の図書室に寄付していただけないでしょうか?」と、打診していました。ブック・セール担当者は、それを覚えていたので、ハリスさんのメールを私に転送してくれました。2011年8月24日、私は初めてハリスさんにメールを出しました。

暫くの間メールの交換をして、私がパークリッジにあるハリスさんのお宅に本を受け取り行ったのは2011年11月13日のことでした。別棟の倉庫に積んであった5・6箱の日本書を戴いてきました。200冊はあったでしょう。2012年にも彼から連絡がありました。その時は私が郵送料を出して送ってもらいました。2013年1月、シカゴのミシガン通にある書店より6箱の和書が送られてきました。半月後、追加3箱が届きました。これらの本は、ハリスさんがその書店に委託していた未売却図書でした。この時も、郵送料だけを支払いました。今年1月ハリスさんよりメールで、「まだ10箱くらい和書が手元にあるのですが、要りませんか?」と打診されました。受諾して、送料を知らせてくださいとメールしました。その返事が来たのが2015年1月17日でした。そして、それが彼から届いた最後のメールとなってしまいました。ハリスさんから私の図書室に寄贈いただいた和書の数は600冊をゆうに超えました。

冒頭で書いたように、私は彼が亡くなった時日本に居ましたから、告別式に出席できませんでした。日本からはFacebookで哀悼の意を表することしかできませんでした。帰国後、真っ先にしたことは、奥さんにお悔やみ状を書くことでした。ご主人の寄贈書がカーロック・ブック・カフェの成長に大きく寄与したこと、そして、彼の残した本はいつまでも感謝され続けることを伝えました。私の図書室をご利用の皆さんも、次回来られたら、彼に感謝してください。

クレイグ・ハリスさんのご冥福をお祈りします。

2015年6月2日

カーロック・ブック・カフェ代表

ジャガード千津子

2015年訪日シリーズ その1 恩師冨田弘教授の足跡を追う - 鳴門市ドイツ館を訪ねて

Monday, June 1st, 2015
鳴門市ドイツ館

鳴門市ドイツ館

Part III

会話が一段落したので、館長について二階の展示室を見に行こうとしたところ、小学生の大きなグループが階段をふさいでいました。それで、館長は私一人では行きずらい場所を車で案内してくださいました。まず、大麻比古神社裏手にある、ドイツ橋とめがね橋。両橋ともドイツ人俘虜が造った石の構築物ですが、めがね橋は小さなもので、日本庭園にしっくり収まる石橋のように見えました。それから、ドイツ村公園に向かいました。そこは、俘虜たちが生活していたバラックが立ち並んでいた場所です。写真は、そのうちの一棟半分の土台跡。当時のバラックは公園西隣の県営住宅が建つ敷地を含んで並んでいたようです。

ドイツ橋

ドイツ橋

めがね橋

めがね橋

バラック跡、ドイツ村公園

バラック跡、ドイツ村公園

ドイツ館に戻ると、館内は落ち着きを取り戻していたので、二階の展示場に行きました。松江収容所長、俘虜たちの手による刊行誌『ディ・バラッケ』、第九シアター等がフィーチャーされていました。館長はドイツ人俘虜の中には東大や北京大学で教鞭をとったアカデミア、優れた音楽家、職人たちがいたこともお話くださいました。ウィキペディアで読んだのですが、神戸のユーハイムや愛知県半田市の敷島製パンも残留ドイツ人俘虜の遺産でした。第一次大戦から第二次大戦に至って、日独関係が改善された誘因が、第一次大戦中の日本でのドイツ人俘虜の好処遇との説明もありました。

第九シアター、ドイツ館

第九シアター、ドイツ館

2時間も私のために時間を費やしてくださった川上館長にお礼を言って、ドイツ館で自転車をお借りしました。残り3時間。共通入場券だったので、同じ敷地内にある賀川豊彦記念館に立ち寄ることにしました。

半券を渡して入口横のビデオ室に入るやいなや、職員らしい男性が私がどこから来たのか尋ねました。名刺を見ると、鳴門友愛会会員の若松さんという方でした。「イリノイです。」「私は(イリノイ州の)リンカン市を訪れたことがあります。」と彼は顔を綻ばせました。私が小さな私設日本語図書室を運営しているとお話したところ、「お宅の図書室に賀川豊彦著書の中から、一冊寄贈します。」と仰って下さいました。お言葉に甘えて、『死線を越えて』を受け取ることにしました。数分後田辺館長が到着すると若松さんは私を紹介してくださいました。私は長椅子に腰かけて館長と45分も歓談するお時間を戴き、恐縮しました。私の賀川豊彦氏に関する知識は、ウィキペディアの域を出ていなかったので、これから彼について勉強する決意を固めました。

賀川豊彦記念館

賀川豊彦記念館

気が付けば既に午後1時近くになっていたので、お暇して外に出ました。日中快晴のお天気予報は大きく外れ、雷雨になっていました。記念館でお借りした傘を片手に、危なっかしいこと極まりない状態で自転車を漕ぎながら、四国八十八ヶ所霊場第一番札所霊山寺を目指しました。板東訪問の最終目的は、恩師の墓参りだったので、霊山寺参拝は必須でした。本堂の前で合掌し、恩師が私をここ板東に導いてくれたことに感謝しました。素晴らしい人たちに出会い、彼らの優しい心に触れた感動で熱いものが胸から込み上がるのを堪えることが出来ませんでした。午後2時15分。時間が許せば第二札所の極楽寺にも行きたかったのですが、諦めました。自転車を返却し、急いで民宿に戻り、タクシーで池谷駅に直行し、午後3時37分のうずしお特急で鳴門を後にしました。

霊山寺

霊山寺

思えば、恩師冨田教授と4月4日の誕生日を共有した私は、大学時代から公私ともにお世話になりました。私が渡米した1988年に亡くなられたのを知ったのが、昨年秋。この春、予定より2年早く急遽会社を辞め、訪日を決定。アメリカを発つ前、奥様がご健在かどうか、そして恩師のお墓の場所を調べようとしたのですが、努力は報われませんでした。恩師が愛知県立大学から1980年ころ移籍されていることは知っていましたら、豊橋技術科学大学にも連絡を入れたのですが、「何分30年も前のことでして、情報がございません。」というお詫びのメールを受け取りました。恩師の名古屋の住所をネットで検索しましたが、既に家は跡形もなく、某大学のキャンパスの一部になっていました。恩師に続く道への手がかりはドイツ館だけでした。

5月14日、板東で過ごした6時間は、2015年訪日の最も心に残るものになりました。ドイツ館の川上館長、賀川豊彦記念館の田辺館長並びに若松さんたちの暖かい人柄と心遣いに触れることが出来ました。一世紀近く前、青島から送られてきたドイツ人俘虜たちが接した板東の人たちは、今年私を迎えてくださったこの人たちのようであったのではないでしょうか?ドイツをこよなく愛した故冨田弘教授が、私にそれを伝えたかったのかもしれません。

ドイツ館川上館長と

ドイツ館川上館長と

賀川豊彦記念館田辺館長と

賀川豊彦記念館田辺館長と

 

2015年訪日シリーズ その1 恩師冨田弘教授の足跡を追う - 鳴門市ドイツ館を訪ねて

Monday, June 1st, 2015
賀川記念館からドイツ館を見る

賀川記念館からドイツ館を見る

Part II

恩師の足跡を追う

一年近くも前から私は2015年は有給休暇を利用してアイルランドを旅する年にしようと考えていました。ところが、今年1月職場で予期せぬ事態が生じ、3月には辞職を決断しました。4月の第2週を最後に、職場を去りました。振り返れば、1988年渡米直後職を得てから、30年近く働きづめでした。疲れていました。気分転換が必要と感じました。主人も「ご苦労さん」「骨休め」旅行を勧めてくれました。そうと決まれば、早急な出立を希望しました。アイルランドが第一候補、そして、その次が日本。飛行機の空席状況、費用、旅程の満足度等を考慮したところ、第二候補の日本が魅力を増してきました。折しも、友人の企画する鎌倉歴史セミナーが5月に開催されることもあり、Destination Japan(目指すは日本)を決定しました。

15日間の日本滞在を、いかに有意義に過ごすか?せっかく6000マイルも旅するのですから、濃厚且つ満足度の高いものにしたいと思いました。東京と実家のある愛知県を拠点にすることは決めていましたが、それだけでは物足りないので、小旅行を組み込むことにしました。40年来行きたかった萩に2日、そしてもう1日追加して恩師の研究資料を蔵している鳴門のドイツ館にも足を延ばす方向で計画を進めました。ドイツ館で恩師を知っている人がいるかもしれないと思い、メールを入れてみると、川上館長から丁寧な返信が届きました。数回の交信後、5月14日に私がドイツ館に伺う旨を連絡させていただきました。館長経由で、前夜の宿泊を近くの民宿に予約しました。

5月13日午後、二日間の萩滞在を終えて、徳島県鳴門市の池谷駅に向かいました。ドイツ館の最寄りの駅は板東ですが、普通電車しか止まらないので、特急が止まる一駅先の池谷まで行く手配をしていました。東萩駅を午後2時41分乗車。電車5本を使い、長門市、厚狭、新山口、岡山で乗り継ぎ、池谷に到着したのは、夜9時5分でした。うずしお特急が止まると言っても、池谷は無人駅で、降車者も数人しかいませんでした。萩で体力を消耗したのか、お土産を買いすぎたのか、ずっしり重くなったスーツケースを難儀そうに引き摺ってホームから駅舎に向かうと、年配の男性が待っていました。民宿のご主人が迎えに来てくれていました。

ミニバンに乗り込むと、ご主人が私の出身を訪ねました。「米国イリノイ州から来ました。恩師冨田弘教授の研究資料があると聞いたので、明日、ドイツ館を訪ねます。」「冨田先生なら、いつもうちに泊まってくれてました。来られると1週間から10日も滞在されましたよ。いつも研究してましたなぁ。家内も先生を良く知っていましたよ。」徳島で最初に会話した人が恩師を知っていたことに、驚きと喜びで胸でいっぱいになりました。宿に着いてお風呂をもらうと、夜中近くになっていました。

民宿観梅苑は1キロもある灯篭で飾られた大麻比古神社参道の中ほどに隣接しています。部屋数は15くらいでしょうか。私は2階の一室をあてがわれました。14日朝、障子窓を引くと、数百メートル先、鮮緑の中にヨーロッパ風の白壁蒼屋根の建物が見えました。ネットで見たことがありましたから、それがドイツ館であることがすぐ分かりました。視線を民宿の近くに移すと、梅園が広がり、近くの民家も日本家屋で、ドイツ館だけが浮き上がっている感じがしました。

民宿から見えるドイツ館

民宿から見えるドイツ館

食堂に行くと、大型連休直後のせいか泊り客は6・7人しかいませんでした。炊事場に奥さんがいたので、恩師のことを尋ねると、良く覚えておみえでした。部屋に戻り、出かける用意をしました。荷物は、午後まで預かってもらい、ドイツ館に徒歩で向かいました。午後3時には荷物を取りに戻らなければなりません。しめて6時間で恩師の足跡をどこまで辿ることが出来るのでしょうか?大麻比古神社参道入り口まで5分、右折して高松自動車道に沿って歩くと、ドイツ館とその手前の賀川豊彦記念館の煉瓦造りの建物が調和良く視界に入ってきました。濃緑のキャンバスにこの2建造物だけを被写体にしたら、まるで外国にいるようだと思いました。

9時半のドイツ館開館時間まで少し時間がありました。建物の周りを歩きながらシャッターを切りました。『第九の里』にふさわしくベートーベンの銅像が園内にありました。ドイツの国旗も掲揚されていました。板東俘虜収容所は、四国にあった3収容所を集約して建設された施設でした。今でこそ高松自動車道から車の走行音が聞こえるものの、収容所が建設された当時の辺鄙さは容易に想像できました。そこに1000人ものドイツ人が住んでいたのですから、この辺りは、異国そのものだったのでしょう。

ベートーベン像

ベートーベン像

開館時間になったので、受付で入場券を購入しました。館長がご在室が聞いたところ、すぐ館長室に通していただきました。川上館長は私を待っていて下さったようでした。挨拶を交わした後、私の恩師冨田教授の研究資料、著書『板東俘虜収容所』、ドイツ人俘虜たちの手によるガリ版ガリ版刷刊行誌Die Bracke等を見せてくださいました。また、恩師を偲ぶ人たちの寄稿からなる厚さ1インチもある写真集も手に取ってみることが出来ました。恩師がいかに多くの人たちから慕われていたか、再認識しました。30余年ぶりに恩師の映像に再会できた興奮を隠せませんでした。

Die Bracke(ドイツ館蔵)

Die Bracke(ドイツ館蔵)

コンサートちらし(ドイツ館蔵)

コンサートちらし(ドイツ館蔵)

コンサートちらし(ドイツ館蔵)

コンサートちらし(ドイツ館蔵)

コンサートちらし(ドイツ館蔵)

コンサートちらし(ドイツ館蔵)

2015年訪日シリーズ その1 恩師冨田弘教授の足跡を追う - 鳴門市ドイツ館を訪ねて

Monday, June 1st, 2015
Deutsches Haus Naruto鳴門市ドイツ館

Deutsches Haus Naruto鳴門市ドイツ館

***2015年5月、2年ぶりに日本を訪れました。15日間の滞在中に東京、愛知、萩、鳴門、鎌倉を巡りました。心に残ったことをブログにまとめました。***

Part I

愛知県立大学在籍時の冨田弘教授

大学時代(1970年代)大変お世話になった教授がいました。外国語学部の冨田弘ドイツ語教授。英語専攻の私が教授と初めて接点を持ったのは、大学3年の時、教授のスウェーデン語を受講した時です。「スウェーデン語の動詞は、語尾の語調が歌のように上がります。」「初めてストックホルムに行ったとき、鼻血が出ていることにも気づかないほど寒かった。」と教授が話されていたことを思い出します。

 

その頃、私は一年休学してアイルランドで英語の勉強をする計画を立てていました。翌春、フランス語学科の学生と二人で日本を発ち、夏の間ヨーロッパ各地を旅行する。彼女とは7月頃大陸で別れ、それから一人で秋口までにウエールズからダブリンに到着したいと考えていました。ソ連極東から東欧・西欧に進み、ヨーロッパ西端のアイルランドに8月半ばに到達する大雑把な計画を練り始めたところでした。

教授・学生間の垣根が低かったからでしょうか、教授の研究室には学生が頻繁にたむろしていました。御多分にもれず、私たちもその仲間でした。教授が東ドイツのワイマールに住んでおられたことを知り、私たちの東独における訪問地はワイマールにすることに決めました。欧州滞在経験をお持ちの教授は、私たちの心の大きな支えでした。

翌年、欧州から帰った私たちは教授を研究室に訪ね、ヨーロッパでの体験をお話しました。残念ながら、ワイマール滞在は試みたものの、実現せずに終わりました。鉄道でポーランドからワイマールに到着したのは夕方でした。1時間待ってもタクシーが拾えず、ポーランドで前払いしたお金も旅行代理店 Reisebüroが既に閉まっていたため受け取ることが出来ませんでした。ホテルはどこも満室で、本当に泣き面に蜂状態でした。詮方なく、ワイマールでの宿泊を諦め、私たちはその夜の列車で西ドイツに向かいました。

アイルランドで丸々と太った私は、日本人男性嫌悪症とでも言えそうなほど、同年代の日本人男性を嫌いになって日本に戻りました。。それは、裏返せば、欧州で自分の無知、不甲斐なさに気づき、その自己嫌悪が異性に対する批判を牽引していたのかもしれません。そんな両親には言えないことも、教授には話すことができました。教授は常に私たちの言葉を白黒判断せずに聴いて下さいました。その教授の心の広さが私をあるがままの自分でいさせてくれたのでしょう。教授は私たちに特別時間を作ってくださいました。週に一度教授と井原西鶴の『好色一代男』を読み合わせすることにしました。

大学卒業後も、私は英文科の夜間講義を聴講し続けました。時々、教授の研究室を訪ね、歓談しました。その後の数年は事情あって私は引っ越しを繰り返しました。1984年、教授夫妻を名古屋のご自宅に訪ねたのを最後に、1988年私はアメリカに永住先を決めました。

教授はどこに?

何が引き金だったのでしょうか?私は昨2014年秋、ふと冨田教授のことを思い出しました。以前ヨーロッパの旧友たちをインターネットで検索して、彼らと連絡がとれていましたから、教授の検索にも希望を持っていました。ところが、ネットは私の胸をナイフでグサリと刺したのでした。教授は1988年、私が日本を離れた年に亡くなられていました。享年62歳。あまりにも若すぎました。1グラムの贅肉もついていないスリムな身体。スキーを楽しまれ、いつも溌剌としておられた教授が、平均寿命遥か以前に他界されたという情報は、悪夢そのものでした。

ネット検索を続けていくと、教授が第一次世界大戦中、中国青島で捕虜となったドイツ兵の日本における収容所生活を研究をされていたことを知りました。そして、1917年に徳島県の板東俘虜収容所でドイツ人によるベートーベン第九交響曲の日本初演奏の事実を発表されていたことも知りました。また、教授が亡くなられてから教授の研究をまとめた『板東俘虜収容所-日独戦争と在日ドイツ俘虜』が出版され、教授の奥様が板東に在るドイツ館に教授の研究資料を寄贈されていたことも分かりました。

冨田弘著書

冨田弘著書

第九演奏会パンフレット

第九演奏会パンフレット(ドイツ館蔵)

冨田弘「ベートーベンの第九講演会」のお知らせ

冨田弘「ベートーベンの第九講演会」のお知らせ(ドイツ館蔵)