Archive for August, 2015

チコの独偏(独断と偏見満載)ブック・レビュー  Chiko’s Book Review – Shigeru Mizuki

Saturday, August 29th, 2015

『ゲゲゲの女房』武良布枝著  Gegege no Nyobo by Nunoe Fura

『ねぼけ人生』水木しげる著  Neboke Jinsei by Shigeru Mizuki

『総員、玉砕せよ!』水木しげる著  Soin, Gyokusai seyo! (manga) by Shigeru Mizuki

Books reviewed

Books reviewed

友人から「とっても面白いから是非お読みになったら?」と誘われてお借りしたのが、「『ゲゲゲの女房』。著者は、ゲゲゲの鬼太郎で有名な漫画家水木しげる氏の奥様、武良布枝さん。

スーッと、と読めて、貧乏して苦労してきた夫婦のことが良くわかりましたが、本の中では奥さんの目から見た水木しげるさんがデンと座っている。水木しげるさんに興味が沸くのは、当然です。それで、弊図書室に水木さんの著書があるか確認したところ、自伝『ねぼけ人生』とラバウルでの経験を基にした漫画『総員、玉砕せよ!』が見つかりました。今回のBRでは『寝ぼけ』に焦点を合わせながら、この3冊を1セットとして扱うことにしました。

今は昔の60年代に放送されたテレビ漫画『ゲゲゲの鬼太郎』は知っていました。でも、『鉄腕アトム』や『鉄人28号』に浸った私にとって、『ゲゲゲ』の作画スタイルや妖怪テーマには魅かれなかったため、『ゲゲゲ』の作者についての知識は殆どありませんでした。私は50歳近くになってから日本のアニメ・マンガのレベルの高さに感動して、『ガンダム』とか『犬夜叉』とか、日本の目ぼしいアニメ作品をこれでもか、これでもか、と(息子にまでマニアと呼ばれながらも)見続けましたが、その時も『ゲゲゲ』との距離は縮まりませんでした。[余談ですが、ガンダムのクリエーター富野喜幸氏が2004年にシカゴ国際映画祭で功労賞を受賞したとき、アテンドしました。その時、ミセス・富野が私のような“おばさん”がガンダムに興味を持っているのを知って驚いておられました。]

これまで『ゲゲゲ』との接点はほぼなかった私ですが、『ねぼけ人生』読了後、水木しげる氏にとても好感を持ちました。ご自分を自然体のまま表現されています。歯に衣を被せない物言い、不浄物や人に反感を買いそうなことでも、直に宣われます。そして、ご自分の目線を頑として動かさない。高飛車になったり、卑屈になることがない。そこが、いいですね。

水木氏は冒頭から「偶然と神秘の谷間に住むナニカの指令によって」奇人的な自分が生まれたらしいと結論づけている。幼いころから妖怪の存在や所作を身近に感じたそうだ。死霊の「引っ張り」におびえたことも多々あったらしい。こういった資質や経験が鬼太郎の基盤になったことは容易に頷けます。子供の頃はガキ大将、仕事は三日坊主という思春期を送った。

1943年、赤紙がやって来て、パプア・ニューギニアのラバウルに派遣された水木氏はそこで傷痍兵となります。なぜ戦わなければならないのか、死にたくない、と感じていた若者は水木さん以外にも沢山いたでしょう。『総員、玉砕せよ!』の中で、玉砕を100%遂行することは非常に困難であると描かれていますが、そうだと思います。人の命は、儚くも、またとてもしぶとくもあります。片腕を失くされても、その苦しみには殆ど触れていません。それより、惨禍を越えたところにある自分に焦点を合わせることが出来ているからでしょう。

ラバウルで土人たちと友達になれたのも、彼持前のあるがままを出すことのできる性格が現地人に受け入れられたためでしょう。自分を認めてくれた場所が楽園に見えたのは当然だと思います。

私が水木さんの職歴をある程度理解できるのは、彼が紙芝居業に入られた時からです。(『ゲゲゲの女房』もこの辺りから本筋に入ります。)とは言っても、小学校2年の時にテレビが家に届きましたから、私と紙芝居との接点は短かったと思います。近くの神社に紙芝居のおじさんが自転車でやって来ました。私は幼かったため、また食い意地が張っていたので、紙芝居の内容はよく覚えていません。練り飴やハゼコ(アメリカ流に言えば、甘醤油で絡めたライス・クリスピー)が食べられることの方が嬉しかったのです。特にハゼコは、あの小さな米粒がどうしてあんなに大きく膨らむのか、不思議でなりませんでした。

私の町には貸本屋はなかったと思います。姉たちも本を借りていませんから。その頃水木氏はガリガリと漫画を描き続けておられたのですね。私と漫画の出会いは、中学校の頃、月刊少女雑誌が発売されるようになってからです。毎月お小遣いで購入して読みました。里中真知子さんの時代です。また、怖し見たしの『へび女』が学校で話題になりました。母ですら、口裂き女(へび女)のことを知っていました。1・2年購読したと思います。[当時の少女雑誌を今日まで取っておけば、価値が上がったでしょうが、収納スペースの少ない日本の家屋。定期的な廃品回収ですべて処分してしまいました。紙芝居も、消耗品、または価値が低いものと決め込んで処分される運命をたどったのでしょう。アメリカでは、昔のガラス製薬瓶でもオークションで売れます。物に対する姿勢を変える必要があるかもしれません。]

以上、このレビューの95%は水木しげるさんのことになってしまいました。ミセス・水木こと武良布枝さんは、『ゲゲゲの女房』の中で、「終わりよければすべてよし」と結ばれています。水木しげるさんが仕事に打ち込むことができた背景には、家族という基盤を奥さんが固めてサポートしてくれたからです。この世の楽園と見えたパプアニューギニアの土人の生活も時流に逆らうことが出来ず、色褪せました。水木氏は移住を諦めます。それでも、90歳を超えた今も彼は「楽園」から発する光に向かっています。彼には「終わり」はなく、「進み続けることイコールすべてよし」が当てはまるような気がします。水木しげるは楽園に続く道を歩み続ける。ゲゲゲの女房と手を携えて。

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おまけ ― Chikoのラバウルの思い出  Bonus – Memories of Rabaul, 1982

私は、1982年総理府青年の船の渉外団員としてでオーストラリア、ニュージーランド、フィジーを訪れました。私たちの船「日本丸」は、シドニーに行く手前、給油のためラバウルに寄港しました。船を降りると、すぐオープン・マーケットがありました。色とりどりの布を腰に巻いた女性たちが野菜の売買をしていました。檳榔子(ビンロウジ、椰子科の植物。唾液と混じると赤くなる)を噛む男性が多く、厚い唇が朱色に染まっていて、異様な感じがしました。突然、自動車がゆっくり走って来て、歩行者に当たりました。すると、近くにいた男性が何人か集まってきて、何とその自動車をドライバーが中にいるままで、皆して車を持ち上げて逆さまにしてしまったのです。そして、ワイワイ何か叫んでいました。随分乱暴な人たちだと思いました。

Taro & other root vegetables

Taro & other root vegetables

Betel Nuts ビンロウジ

Betel Nuts ビンロウジ

その後、旧日本海軍基地の一部でしょうか、慰霊碑のある場所に行きました。洞窟の入り口の近くまで歩きましたが、中には入りませんでした。(入れなかったのかもしれません。)

Old Japanese Base

At the old Japanese Base

Local Children

Local Children

それより、一日だけの短い寄港中に一番印象に残ったのは、私たち数人がマーケットで知り合ったオーストラリア人、マークから聞いた話です。彼は、ちょうど家族とヴァケーションでラバウルに来ていました。海辺の一軒家に住んでいる80歳過ぎの地元の男性が留守で、マークは家族とともにそこに滞在していました。その家は、平屋でフレンチ窓を開けて庭に出ると、25メートル先は海です。家の土台が盛り上げてあるわけでもなく、庭の端と海面は面一(段差ゼロ)でした。凪いでいたので滑るような海面でした。海が荒れたら、浸水の心配はないのかしら?と思いました。地球温暖化が進んだ現在、あの家はまだ存在するのかしら?

それまでの私のパプア・ニューギニアの知識は極貧でした。「ラバウル小唄」以外は、1930年から40年代ハリウッドで一世を風靡したエロル・フリンの伝記で、彼が映画界に入る前、パプア・ニューギニアを旅したことを知っていました。オーストラリア生まれの彼にとって、パプア・ニューギニアは、冒険心をそそる隣国だったのかもしれません。

マークの滞在している家に招待された私たちは、そこで彼の家族に紹介され、紅茶をご馳走になりました。ポーチにある籐椅子に腰かけて歓談しました。彼の話によると、その家の持主には、何十年も付き添っている従僕がいるそうです。二人がまだ十代の頃、ある日主人が人食い人種に追われました。従僕は主人を必死で護り、安全な場所に連れていくことが出来ました。従僕はケガをしましたが、命に別状ありませんでした。従僕はそれから70年近く主人の元に仕えているそうです。

Enjoying afternoon tea, Rabaul, 1982

Enjoying afternoon tea, Rabaul, 1982

人食い人種と対峙した人の話を聞くのは初めてでした。人食いと言っても誰彼構わず食べるわけではなく、敵を殺して食するのだとマークが教えてくれました。3週間後、青年の船最後の寄港地、フィージーのスバに行ったとき、博物館を訪れました。そこに、人食い人種の使った人を殺すための武器や人肉用のフォークがいくつも展示されていました。敵を食べる種族は太平洋のかなり広い範囲に住んでいたことがわかります。覚えている武器の一つを紹介します。70センチくらいの堅木のこん棒。60センチほどの柄に直径15センチくらいの瘤だらけのボールがくっついている態のもの。それを遠くの敵に投げつけて殺すのだそうです。木製人肉用フォークもいくつかありました。全長30センチくらい。丸い頭(手で掴む側)から長い4本脚が伸びている。先に行くほど細くなり、先端部が外側に反り返っている。

第二次世界大戦時、ラバウル基地を発した多くのゼロ戦闘機が太平洋の四十万に散っていきました。。『ねぼけ人生』の中で、水木しげる氏は戦後東京で追撃王坂井三郎と会った時のことに触れています。私の義父は1941年の真珠湾攻撃の直後、海兵隊に志願し、ハワイで訓練を受けた後、ニュージーランドで待機しました。その後、1942年から1945年に除隊するまで、歴史の教科書に出てくる太平洋海戦をすべて経験しました。夫から聞いた話では、義父はガダルカナル海戦で、機銃砲火を浴びた坂井三郎の戦闘機らしきがコントロールを失っているのを目撃したそうです。身近な人のそういった体験を聞くと歴史が活きてきます。

こんな記憶しかないので、水木さんのようにラバウルがこの世の楽天地とはとても思えません。でも、機会があれば、再訪したい場所です。ネットでラバウル近郊の写真を何枚か見ました。私の33年前の写真と比較してみました。ネットのタブルブル山は煙を吐いている写真が多いですが、私が見た時は仮眠中でした。他に、マーケットの写真、現地の子どもたちの写真等シェアします。千津子

Dormant Mt. Tavurvur

Dormant Mt. Tavurvur, 1982