チコの旅行記:1974年のソ連と東欧 Part 1

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1974年4月、私は初めて日本を出ました。最終目的地は、ヨーロッパ西端アイルランドの首都ダブリン。そこに7月末に到着することを照準にしていたので、それまでの3か月余の時間をかけて、ソ連を皮切りに西へ漸進しながら旅行することにしました。手元にある日記と私の記憶を辿りながら、当時のソビエト連邦とポーランドをご紹介します。

ソビエト連邦USSRが消滅して、既に四半世紀が過ぎようとしていますが、私の知っているユーラシアの大国は、ロシアではなく、ソ連です。実はソビエトには二度行きました。一回目は1974年春。私の初めての外国旅行で、長い“欧州街道”の出発点でした。二度目の旅は1978年夏、45日掛けて鉄道でソ連とポーランドと周りました。こちらの旅行記は、一緒に行った人が英語版で出していますので、触れません。今となっては、消えた大国USSRですが、日記に目を通すと、40年以上も前のソビエトが、私の心に鮮やかに蘇ってきます。「東欧」と言う言葉は、今では陳腐な響きがありますね。

旅程:昭和49年

4月19日          アエロフロート機で新潟からハバロフスクへ

4月20日          アエロフロート機でモスクワへ

4月22日          アエロフロート機で東ベルリンへ

4月25日          鉄道でポーランドへ(ホーム・ステイ)

5月10日          鉄道でワイマール(東ドイツ)へ

5月11日          鉄道で西ドイツへ

 

新潟からハバロフスクへ

時は、ブレジネフ政権時代。西側情報を厳しく制限していたUSSRことソビエト社会主義共和国連邦。

新潟発ハバロフスク行アエロフロート直行便、乗客4名のみ

新潟発ハバロフスク行アエロフロート直行便、乗客4名のみ

1974年4月19日午前11時20分、新潟発ハバロフスク行直行便。乗客は、スイス人2人、友人と私の4人だけだった。搭乗すると自動的にファーストクラスに通された。乗務員の数の方が多かった。採算完全無視。さすが共産国。ハバロフスク着午後2時15分。ソ連の極東は日本より一時間早い(GMT-9時間)ので、飛行時間3時間弱。

ハバロフスクに到着すると、インツーリストから派遣された日本語の達者な女性が迎えに来ていた。マイクロバスで宿泊先セントラル・ホテルに連れて行ってくれた。翌日の市内観光案内も彼女が担当だった。彼女の日本語は流暢且つ語彙豊富。その金髪の女性から俗語(ヤクザ用語)が発せられた時は、私の口がアングリ。余り驚いたので、どこでその言葉を習ったのか彼女に尋ねそこなった。

 

 

インツーリストの通訳ガイドさん@ハバロフスク

インツーリストの通訳ガイドさん@ハバロフスク

ハバロフスクの町は、だだっ広いスペースに無味乾燥な鉄筋コンクリート造のアパートが目立った。市内観光をしたけれど、どこに行ったか、ほとんど記憶にない。おそらく、動物園とレーニン像、オベリスクを見たくらいだったのだろう。メーデーは10日以上も先だったが、町の広場では数百人の学生と軍人がパレードの予行演習に余念がなかった。ソ連に於けるメーデーの重さが印象に残った。

4月19日の為替レート:1ルーブル372円=$1.33。ちなみに、2016年5月28日現在、1ルーブル1.64円、$0.015ドル。レートを見るだけでも、その後のロシア経済の歩みが困難だったことが想像できる。

翌日ハバロフスクからソビエトの国内機でモスクワに飛んだ。小柄な私でも、前の席との間隔が狭く、閉口した。国内線の飛行機は軍用機の払い下げと聞いた。日本では、ソビエト国内の飛行機事故は聞いたことがなかったが、そういう情報は国外に出ないとも言われていた。詮索しないことにした。

 

モスクワ

クレムリンを背景に

クレムリンを背景に

4月20日夜、モスクワ着。雪だった。そこに住んだことのある友人の語ったモスクワの冬を思い出した。「寒い日は、女性はメーキャップを濃くするよう指示が出る。外を歩く時は、呼吸に気をつけなければならない。吸引は前向きでOK。でも、息を吐く時は湿気が顔にかからないよう、顔を斜め後ろに傾けなければだめだよ。」何となく頷けた。

クレムリンの残雪

クレムリンの残雪

 

 

物資不足。デパートでは、空いている棚の方が多い。食料品も粗野なものばかり。お店の前、食堂の前はどこも長蛇の列。でも、外国人は、何十人抜きで、列の一番前に行って、サービスを受けることが出来る。免税品店では、良質のウオッカが手に入るが、外貨を持たない地元の人には手に届かない。自国民への差別。粗悪なウオッカに酩酊する人が目につく。モスクワ地下鉄は、深いところを走ると思った。2か月後、ロンドンの地下鉄に乗った時、モスクワのそれを思い出した。エスカレーターが、ズンズン地下に潜っていく感じが酷似していた。

泊まったメトロポリス・ホテルのロビーは人種のるつぼ的様相だった。大勢の人が食事をし、ダンスをし、テレビを見たりしていた。今思えば、ホテルのロビーが社交場になっていたのだろう。黒檀色の肌を持つアフリカ人を初めて見た。ロビーには“人種差別アリ”の空気が充満していた。日本人の私も見下されたような雰囲気を強く感じ、不快だった。ドルの闇取引を促す人もいた。

ホテルの部屋には、毎晩いたずら電話が掛って来た。新潟から一緒だったスイス人もそう言っていた。ホテルのバーで酔っぱらった若者たちが、手あたり次第ダイヤルを回すらしい。迷惑だったが、危険とは思わなかった。

赤の広場では、軍人たちが一週間後に迫ったメーデーに向けて猛練習をしていた。パレードの規模は、ハバロフスクの比でなかったことは言うまでもない。

モスクワの女性は、厚化粧ながらも綺麗な人が多いと思った。対照的に、男性は光っていなかった。

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ベルリン

モスクワからアエロフロート機で東ベルリンに飛んだ。ビザは持っていなかったが、問題なかった。入国審査を終えたその足で、Uバーンに乗って査証の心配をしないですむ西ベルリンに入った。

ベルリンは物価が高いと思った。最初に泊まったアロサ・ホテルの室料は2万円もしたので、翌日そこから300メートル離れたところにあるペンション(民宿)に移った。料金は半減した。マルクの換算レートは86円。ドイツの通貨は、ずっと安定していることがわかる。

ベルリンに行った目的は、そこでポーランドの観光ビザを取ることだった。ポーランド領事館で滞在予定2週間と申請して、318マルクを支払った。査証手続き料金にいくらか前払い金が入っていたと思う。1日当たり$20くらいの。

ベルリンの町並みは伝統の重みがあり、整然としていた。ドイツ人は長身でスタイルが良く、散歩に連れている犬さえ、ダンディに見えた。犬糞の放置は許されていなかった記憶がある。全体に文化レベルも生活水準も高いと感じた。住民は旅行者に対して無関心に思えた。

ベルリンに着いて3日目、Zoo駅で翌日乗る電車の時刻を確認した。目的地は、友人の住むポーランド西方の町ブロツワフWroclaw(ドイツ名Breslau)。途中ポーランドのポズナン駅で乗り換えが必要だった。

ベルリン滞在最後の日、ペンション近くのカフェでピンク色のビールを味わった。甘口で、とても飲みやすかった。1杯2.4マルク。後にも先にも、ピンク・ビールを口にしたのはこの時1回だけだ。

[Part 2に続く]

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