チコの旅行記:1974年のソ連と東欧 Part 2

ポーランド民族舞踊

ポーランド民族舞踊

ブロツワフ(ポーランド)

1970年代でも、ポーランドは西を見ているんだ、との印象が強かった。直前にソビエトで3泊した経験から感じた事だった。ここでも物不足は深刻だったが、本屋に並んだ雑誌は、ソ連では見られない多様さがあった。女性のファッション雑誌を手に入れることなど、モスクワでは夢のまた夢だった。

ポーランドには2週間滞在した。私たちのホストファミリーは、ポーランドの南西部に位置するブロツワフ市に住んていた。家族構成は、50歳代の夫婦、20歳前後の息子と、大学院生の彼のお姉さんの4人で、平均的なアパート住まいをしていた。警察署に外国人の私たちが滞在していることを報告する義務があったと聞いた。

到着して3日目、息子さんの通訳でお父さんと話す機会があった。彼は、ポーランドの政治、経済に対してとても悲観的な見解を持ってみえた。不換紙幣のズゥオーテは国外では塵同様だった。ドルがなければ国を出られない。欲しいものも買えない。彼は、息子をスエーデンかカナダに出して、そこで一旗揚げさせたいと言っていた。

ある日、ブロツワフ市内の公園で、金閣寺に似た建物を見つけた。日本庭園の中にあったが、1990年代後半、公園の大改修をした時壊したそうだ。[ポーランド観光局員の情報]今となっては、“失われた金閣寺”となった構造物の写真を貼付する。

ブロツワフ市にあった”失われた”金閣寺 ”Lost Golden Pavilion” @Wroclaw, Poland

数日後、公会堂でポーランド民謡と舞踊の舞台を見た。民族衣装に身を包み、長い髪を三つ編みにした女性が演述する哀愁を帯びたメロディーは、言語の壁をワープして私の胸に飛び込んだ。心が震えた。3か月後、私はアイルランドに到着して、9か月を過ごし、何度か伝統的大衆文化に触れる機会を得た。伝統音楽についていうと、私はポーランド民謡の方により惹かれる。

ポーランド滞在半ばの5月初旬、鉄道でアウシュビッツ収容所を訪れた。古都クラクフのパロマ・ホテルに2泊しての小旅行だった。産業公害でクラクフの由緒ある建造物が汚染されているのが目立った。銅像や銅板の屋根が腐敗し始めていた。同行してくれた息子さんの話では、市民の公害に対する不満が高まっているとのことだった。アウシュビッツ収容所では、亡くなった400万人のユダヤ人が使っていた靴や身の回りのものが展示されていた。小雨の中、Eternal Flame(永遠の炎)に献花する人たちがいた。私の心は鉛のように重かった。

クラクフ Krakow

クラクフ Krakow

アウシュビッツ Auschwitz

アウシュビッツ Auschwitz

アウシュビッツ Auschwitz

アウシュビッツ Auschwitz

ホストファミリーの家にある白黒テレビを見て、腹を抱えて笑った。ハリウッド映画が放送されていた。英語の音声の上にポーランド語がヴォイスオーヴァ―されていた。だから2か国語がほぼ同じボリュームで同時進行した。笑点は、一人のヴォイスアクターが登場人物全員を担当することだ。私が見た映画では、中年男性のヴォイスアクターが老若男女ひっくるめて一人でポーランド語を被せていた。安上がりの音声多重放送には違いないが、私には爆笑ものだった。

東にコチコチのソビエト連邦、西に共産圏最西端砦の東ドイツに挟まれたポーランドは、一息つける国だった。ソビエトは、交通費・宿泊費等全部前払いしないと旅行手続きできなかった。到着するとインツーリストの職員が迎えに来てホテルに連れて行く。お決まりの市内観光コースに駆り出す。橋梁なんぞの写真を撮ったりしたら、フイルムを没収される。滞在期間が終れば、駅や空港まで見送って、発つのをしっかりと見届ける。メデイア(出版物、テレビ・ラジオ放送)や風俗店等の規制が厳しかった。ポーランドでは、自由行動ができた。若者たちは、私たちの前で政府に批判的なことを言及するのを怖れていなかった。4年後1978年にポーランドを再訪したとき、ブロツワフの友人たちがストリップ劇場に行こうと誘ってくれた。ソビエトでは、考えられないことだった。

ポーランド民族舞踊

ポーランド民族舞踊

東ドイツ

ポーランドから西欧に入る前に、東独のワイマール市に5日滞在する計画を立てた。ブロツワフ市でビザを取得する時、東ドイツの一部滞在費用$60を払った。ワイマールに着いたらドイツマルクで同等額を受け取ることになっていた。

5月11日。ワイマールには夕方到着した。まずは、ライゼビューロー(国営旅行社)に行き、お金を受け取って、そこでホテルの手配をしてもらうつもりだった。ところが、タクシーが拾えない。一時間以上待った挙句、漸く捕まえたタクシーで駆け付けたものの、ライゼビューローは既に閉まっていた。仕方なく、足を棒にしてホテル探しをしたが、空いている宿泊施設が見つからなかった。手持ちのマルクは、ほどんどなく、翌日は土曜日だった。ワイマールでの宿泊を諦めて、西独ハンブルク行きの夜行列車に乗り込んだ。前払いしたお金は、結局戻らなかった。

西ドイツへ

1990年代に入って、ベルリンの壁が崩壊しポーランドが西側の経済政策をいち早く採用すると聞いた時、全然驚かなかった。それどころか、当然と思った。1970年代のソビエトと東ドイツを色で表わすと、薄暗闇色のソ連、セピア色の東独。ポーランドは褪せているが少し色味がかっていた。ずっと前から、ポーランドは東ブロックから飛び出す機会を狙っていたに違いない。

1974年5月12日、列車で東西ドイツの国境を越えた瞬間、文字通りテクニカラーの世界に入ったと感じた。透明だが、ドイツを東西に分かつカーテンが確実に実在すると思った。あれ以来、不可視バリアをあのように限りないリアリティを持って通過した経験はない。

*****

西ドイツに入ると、ユーレール・パスを有効利用することにした。フランクフルト近郊のドイツ人の家族と数日を過ごし、フランス、デンマークを経て、ノルウェーの友人宅に1か月余お世話になった。その後、スペインまで鉄道で南下し、フランスに戻ってイギリスに渡り、コーチマスター・バス周遊券でグレート・ブリテンを3週間巡った。ここまでは、友人と二人で行動した。

 

7月末、一人になった私は、ウエールズの最西端の港町ホーリーヘッドからフェリーボートでアイルランドの首都ダブリンに向かった。新潟を出発してから、3か月以上が過ぎていた。傍らのオレンジ色のトランクに刻まれた傷の一つ一つが長い、長い旅路を物語っていた。若さゆえにできた、と結論づけることができるのだろうか?よくぞあのような怖いものなしの行動をしたものだ!

この旅行には、追記がある。翌1975年ダブリン滞在を終えた私は、西回りで日本に帰ることにした。4月、ダブリンからボストンに飛び、知人宅に泊まった。数日後、シカゴに飛び、イリノイ州シャンペン市に2泊。そこからはAmtrakの寝台車でサンフランシスコまで旅し、中華街にあるホテルに泊まった。LAに飛んで乗り換えし、ハワイ経由で東京に着いたのは、私が日本を出てからちょうど1年後だった。2年かけて旅費を貯めた。旅行準備に7か月を要した。私の初めての海外旅行は、ソ連を皮切りに西回りで地球をぐるりと一周りしたことになった。千津子

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