チコのブック・レビュー 『徳川慶喜家の子ども部屋』榊原喜佐子 Book by Kisako Sakakibara

『徳川慶喜家の子ども部屋』榊原喜佐子 Tokugawa Keiki-ke no Kodomo-beya by Kisako Sakakibara

『徳川慶喜家の子ども部屋』榊原喜佐子 Tokugawa Keiki-ke no Kodomo-beya by Kisako Sakakibara

最後の将軍徳川慶喜の孫としてうまれた著者、榊原喜佐子(1921-2013)の回顧録。7歳からつけていた日記の抜粋を織り込みながら、小石川第六天町で過ごした少女時代、姉高松宮妃殿下の結婚、お転地、女子学習院、戦時中の思い出等を綴る。

著者は少女時代を、東京小石川の第六天町にあった3000坪のお屋敷で、50人の使用人と共に過ごした。そこには皇族・華族階級の人々が出入りした。家庭教師がいて、夏は避暑地で過ごした。外出時には必ず付添人がついた。特殊用語、行事、慣例の渦巻く生活。そして、彼女の自由行動範囲は、おおよそ敷地内に限定されていた。父親 を幼くして亡くした著者が、天真爛漫に少女時代を過ごすことができた背景には、一つ違いの妹の存在があった。

著者の育った環境がいかに庶民とかけ離れていたかを考えてみよう。同じ大正生まれの私の母を例にとってみる。愛知県三河の小さな町に5人兄弟の長女として生まれた母は、年端も行かないうちから、子守りをさせられた。「背丈が自分とあまり変わらない弟や妹をおぶっていたから、背が伸びなかった」と、母が言っていたのを思い出す。当時、女子は小学校にあがる頃には親を助けて家事、和裁、畑仕事をした。お見合い結婚で嫁いだ後は、舅姑に尽くした。「明治と昭和の板挟みの大正生まれは、損。子供時代は親の言いなり。昭和生まれの子どもには、威張られる。」が、母の口癖だった。

著者と彼女の妹はお抱え運転手付き自動車で女子学習院に通った。1930年代のことだ。彼女たちにとっては、市電に乗ることが“冒険”だった。当時自家用車で通学した子女が日本には何人いたのだろうか?私の母は40半ばで運転免許を取得して初めて自家用車を手に入れた。1968年のことだったと思う。「テレビで車に乗っているアメリカ人を見ると、とても羨ましかった。まさかマイカーが持てる日が来るとは思わなかった。」母は何度もそれを口にしたから、余程嬉しかったのだと思う。

使用人に傅かれ、お店で物を買えばお金を払わねばならないことも知らなかった著者は、まさに別世界の住人だった。だが、違った環境の中で育った彼女が読者に好感を与える理由は、彼女の素直さゆえだと思う。小さい頃、お転婆で木登りが好きだった。学校で立たされたこともあった。満州事変が始まると、「満州に行って兵隊さんたちと一緒に戦いたい」と切実に思った。太平洋戦争が勃発すると、必ず日本の勝ち戦になることに微塵の疑いも挟まなかった。疎開先での失敗談、敗戦後の鬱病罹患、等を臆することなく書き連ねている。

戦後華族制度が廃止され、彼女は平民になった。巻末で著者は自分の躾が、「戦後50年経っても身内に生きているのを感じる」と述べている。続けて、「人にかしずかれ労せずして暮らしていける身分にある者には当然の義務というものがあって、自由は望んではならない、常に人への配慮を忘れてはならない、自分を律することに厳しくなければならない、と思っている」とも。本著の中で彼女はお世話になった多くの人に感謝の意を表している。

最後の将軍徳川慶喜を祖父に持った著者は、国に自分のすべてを捧げることを潔しとした。彼女は、女子学習院時代に大政奉還を研究した。国の命運を個人のそれより前に置くことをその時脳裏に刻んだのではないだろうか?それが、彼女の日本への限りない祖国愛を産んだのだと思う。戦況が悪化し、敗戦色が濃くなった昭和19年秋、彼女の夫は言った。「我々は、悠久の祖国の中に生きる。今はそれしかない。」「我々は祖国のために死ねばよいのだ。」著者は、夫と共に祖国のために殉死する覚悟があった。その日の日記の結びは、「そうだ、死のう。今の代に苦しみの中にある祖国の姿をじっとみつめつつ、我らはただ死ねばよい。」

彼女は、与えられた境遇の中で、懸命に生きた。私はその生き様に共感する。千津子

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