チコのブック・レビュー 『江戸っ子芸者一代記』三部作 中村喜春 Kiharu Nakamura

March 8th, 2016
『江戸っ子芸者一代記』中村喜春 Kiharu Nakamura

『江戸っ子芸者一代記』中村喜春 Kiharu Nakamura

中村喜春(なかむら・きはる)[略歴・草思社]

1913年(大正2)年銀座生まれ。2004年没。16歳で新橋の芸者となり、お座敷をつとめながら専門学校で英語を習得。海外の著名人の接待や、戦後の進駐軍との通訳で活躍。1956年アメリカに渡る。オペラのコンサルタントをするかたわら小唄や長唄など日本の古典芸能を教え、コロンビア大学等で東洋哲学の講義もしていたが、ニューヨークで晩年を迎えた。

[青春篇]

芸者に憧れ、その道で芸を磨き、東京で唯一の英語の出来る芸者として売れっ子となった喜春。ある時、きっぱりと花柳界を去った。外交官と結婚し、インドへ向かう。1942年秋日本に戻った。

[戦後篇]

ビルマに発った夫の留守を預かり、大黒柱として家族を養うために奮闘。戦時中は疎開を繰り返し、戦後は語学力を活かし、通訳等の仕事もした。

[アメリカ篇]

日本社会の学歴偏重・世間体第一志向に耐えられなくなり、1956年渡米することで心機一転。実力主義のアメリカ社会で、彼女は自分を取り戻していった。

著者の魅力は、旺盛な好奇心と比類ない向上心に裏付けられた行動力だと思う。幼くして芸者になることを決め、芸の習得に打ち込む。外国の名士と話したい一心で、英語を修得。家族のために、ビジネスを始める。オペラに興味を持てば、とことん研究。彼女は、あらゆる分野で、プロに徹した。その過程で、彼女は積み木を載せていくように人格を構築していった。与えられた環境の中で、常に全力投球の姿勢を崩さなかった。

後年、彼女は言う。「あたしの一生は『雪だるま人生』」だったと。転がるほどに雪で大きくなり、その雪が彼女を守り役立ってくれる、と。言い得て然り。前向きに生きた魅力的な彼女の周りには、人が集まった。「毎日日の丸を背負っているみたいな使命感で」民間大使を続けた中村喜春さんに、エールを送りたい。

彼女は、アメリカ夫人の中に、“芸者”を見つけた。「アメリカの中流以上の奥様方の様子を見ていると『まるっきり芸者だなあ』と思います。彼女たちは、つまらないパーティにならないように、『売れっ子の芸者』のようにどの人もしらけさせないために、お客様のあいだをヒラリヒラリと飛びまわります。」これが彼女の定義する芸者。彼女がアメリカでアットホームに浸れた所以である。

恋あり、冒険あり、家族との軋轢あり。新橋の芸者口調で彼女の生き様を紹介してくれる喜春姐さんの『江戸っ子芸者一代記』、楽しめること、請け合いです!千津子

チコのブック・レビュー 『最後の留学生』大戦下米国留学生始末記 村田聖明 An Enemy Among Friends by Kiyoaki Murata

February 19th, 2016
『最後の留学生』大戦下米国留学生始末記 村田聖明

『最後の留学生』大戦下米国留学生始末記 村田聖明

兵庫県の地主の長男として生まれた村田青年は、1941年から足掛け7年をアメリカで過ごした。1941年6月、18歳の彼は、大伯母を頼って桑港(サンフランシスコ)に到着した。6ヶ月後、真珠湾攻撃で日米開戦になった。加州内地への自首移転、アリゾナの収容所生活を経て、1943年シカゴで勉学を開始した。文学士・修士号を取得後、1948年日本に帰国した。

彼の渡米目的は、「自分で稼いで勉強する」こと。即ち、アメリカで苦学して学位を取得することだった。アメリカに渡るためには、農場経営をする大伯母に保証人になってもらうより手はなかった。だが、できれば米国に到着次第、仕事を見つけたかった。だから、桑港の入国管理所で、第一種学生(本人・親類縁者に扶養能力があるため、就労できない)に指定された時は、たいそう落胆した。運命のいたずらと言うべきか、収容所に送られてから、大伯母からの財政援助が得られないとして、働ける身分に変更してもらった。最終的には、大学院の授業料は100%自力で稼いだ。

彼が米国留学を望んだ背景に、上海の東亜同文書院に留学を決めた親友の影響があった。「君が上海へ行くなら僕はその七倍も遠いアメリカへ行ってみせる」意気込みがあったと、彼は述べている。私は、1970年代にアイルランドに留学した経験がある。私の場合も、デンマークに向かう友人に張り合った記憶がある。同輩の与える影響は、大きい。

第二次世界大戦中の日系人の内地拘留については、色々な書物を読んでいたが、本書で初めて“自首移転”をした家族の話を聞いた。海岸から75マイルまでが第一軍事地域、75マイルより内地は第二地域に指定されていた。著者の大伯母と従業員たちは、第二地域に近い第一区域に住んでいた。「自主的に奥地に移動すれば収容所に行かなくてよい」と言われていたので、引っ越しをした。それにも関わらず、3か月後には、アリゾナ州のポストン収容所に送られた。当時の立ち退き命令が流動的だったことがわかる。

著者は当初2年近くを、カリフォルニア及びアリゾナの収容所で多くの日系人と生活を共にした。その頃の、彼の日系二世に対する意見は、興味深い。

1943年5月、彼が勉学のためシカゴに行った時、その400万都市には、日本人が200人しか住んでいなかったらしい。殆どのシカゴ住民は、日本人に会ったこともなかった。そのため、戦争中、西海岸の日系人が遭遇したような経験をすることがなかったのは、幸運であった。彼は、大学のキャンパスで、また、雑誌等で彼の意見を発表する機会があれば、積極的に投稿したりスピーチしている。堅固たる信条の持主であることが明白だ。

著者はあとがきの中で、本書を手掛けた動機について述べている。「あの太平洋戦争中、祖国が敵として戦うアメリカという国で、一人の日本青年がいかに自分を失わずして生き抜いていたかを伝えることであった」と。強い渡航目的があった。自活できるように、就労許可を得るための努力を続けた。断られても、断られても、敵性外国人の入学を許可してくれる大学を探し続けた。日本人のいないキャンパスに一人で踏み込んで行った。学業に一意専心した。

著者の留学体験記と比較して、私の留学の生ぬるさを心痛するばかりだ。特に、留学以前の日本に関する基礎知識が足りなかったことを悔いる。しかし、これを教訓にして若い世代を育てるよう尽力したいと希う気持ちが強まった。千津子

チコのブック・レビュー 『村の名前』辻原登 Noboru Tsujihara

January 27th, 2016
『村の名前』辻原登 "Mura no Namae" Noboru Tsujihara

『村の名前』辻原登 “Mura no Namae” Noboru Tsujihara

「よく分からなかったけど、面白かった。」と言う本は、沢山あります。でも、もう一度読んでみたいと思う本は珍しい。『村の名前』は、別格だった。再読した。それも、じっくりと。

著者の言う「村の名前」は桃源村。そう、陶淵明の『桃花源記』で語られる、架空の理想郷。

昔、漁師が迷って外界から隔離された村に入った。そこでは、何百年も前に戦乱を逃れて住み付いた人たちが、幸せに暮らしていた。桃花が村を包み、鶏や犬の鳴き声がのどかさを象徴する。村人たちは、漁師を歓迎した。数日滞在後、漁師は暇を乞う。村長が、村のことは口外無用と依頼して、送り出した。漁師は、帰り道に印をつけて、町に戻ると太守にその村のことを話した。太守は人を派遣して探させたが、誰も桃花源を見つけることはできなかった。

本著の舞台設定は、1990年前夜。日本の商社マン橘が、卸業者加藤の供をして、中国に行った。藺草の畳表を廉価で製造できる工場を探し、買い付けをするためだった。湖南省の長沙から現地人数人と、山奥の村に向かった。案内された所は、桃源県桃源村だった。村の要人は、連日鶏肉や中国酒で橘たちを歓迎する。彼らは、日本の資本で村を観光地化する計画を練っていた。肝心の、橘たちの目的である藺草工場は、お話にならないくらいひどいものだった。村は理想郷にほど遠く、彼らが到着した翌日、女性の死体が見つかった。橘は、歓迎会で料理を運ぶ女性に惹かれた。最後の饗宴で、犬肉が出された。橘は不本意ながらそれを食した。- 彼は、‘桃源界’に足を踏み入れた。

読者は、巧妙な描写にワクワクしながらページをめくる。しかし、‘煙に巻かれた’読後感がある。

桃源村に着くまでにも、橘の幻覚の兆候はあった。神出鬼没の西瓜売り。歪む景色。耳に纏わりつく不思議な微音。平和(?)の象徴的犬肉を食べたことにより、橘は『村の名前』版桃源郷に入る。そこは、時空を超越した一種のパラレル・ワールドだった。10才の少年がいる。同時に老いた83才の元少年もいる。川の土手が、橘の故郷の揖斐川のそれと交錯する。村の脱出計画を立てている、好きになった中国女との交わり。奥美濃の実家の庭にあった花盛りの桃の木の下で、女が赤ん坊を抱いて立っていた。近づいてみると、赤ん坊は橘自身だった、、、

私なりの解釈をしてみた。橘は、桃源郷での経験(幻覚?)を通して、子供から大人に成長したのではなかったか?私の、読み込み過ぎかもしれない。あなたは、どう思われますか?

千津子

チコのブック・レビュー 『親日派のための弁明』金 完燮キム・ワンソプ(2002)

January 9th, 2016
「『親日派』のための弁明」 金 完燮キム・ワンソプ Kim Wan-seop

「『親日派』のための弁明」 金 完燮キム・ワンソプ Kim Wan-seop

某戦後70周年ビデオにこの本が紹介されていましたので、今回取り上げました。

読後感 - よく韓国で出版できましたね。

「青少年有害図書」に指定された - さもありなん。

韓国政府が日本について言っていることと、ほぼ正反対のことで埋め尽くされた本だ。少し引用すると

  • 日本は19世紀中頃….西欧の産業化のレベルに追いつき、それも上層部に合流できた。….アジアの発展に多大な貢献をした。
  • 総督府は李王朝より一歩進んだ統治者だった。
  • 白人の中に韓国や中国を無視する人々は多いけれど、日本を無視する人を探すのは難しい。

また、韓国についても、痛烈な批判をしている。

  • 歴史を歪曲しているのは日本でなく韓国だと思う。これは、国際社会の一般的な見方でもある。
  • 政治家、学者、大学教授、作家を問わず….何としてでも親日派に分類されまいともがく。
  • 韓国政府は、近代的な王朝時代の視点をもって日本を非難する姿勢を捨てるべきだ。
  • カミカゼの後裔である(元首相)小泉氏が….靖国神社を参拝するのはごく自然だ….隣国としてこれに抗議して非難するのは見苦しい。
  • いったい韓国は太平洋戦争で日本と戦争でもしたというのだろうか?当時韓国は日本であったし、朝鮮人はだれでも日本軍として参戦したのだから、正しくいえば敗戦国により近いのだ。

著者は序文で「こんにちの日韓関係は、アメリカの意図によってつくられた構図」ではないかと述べている。「アメリカは日本を再興させてはならないという意思をもって、韓国において強力な反日洗脳教育をおこなう…その基本になったのが、歪曲された、間違った歴史認識です。」面白い視点だと思う。日本は、漸く自虐史観から抜け出そうとしているように思われる。韓国もそろそろ「反日」路線を乗り換えてほしいものだ。

19世紀から日韓併合までの朝鮮半島の動きを詳細に考察している部分は、興味深く、日韓併合に辿り着くまでの状況を理解する上で非常に役立つ。また、日韓、豪州を含めたアジア諸国の取るべき道を提案し、その過程で、韓国が中心的役割を果たすべきだと主張している。

ここまで拗れた日韓関係。いくらお人よしの日本も、堪忍袋の緒が切れた感がある。「韓国側が90%受け入れない限り、日韓の共生関係は、それこそ、『木に登って魚を探す』ぐらい実現不可能な夢に違いない。」と著者は言う。北も南もない、朝鮮半島には一つの国しかないように見える昨今。韓国歩み寄りの可能性は限りなくゼロに近く見える。金氏は、親日的著作で何度も起訴されたり、罰金刑を受けたり、暴行まで加えられた。だが、彼は『弁明』シリーズ2も出版し、活動を続けている。そこに一条の光を見る。

千津子

チコのブック・レビュー 『白蓮れんれん』林真理子 

December 29th, 2015
『白蓮れんれん』林真理子 ”Byakuren Renren” by Mariko Hayashi

『白蓮れんれん』林真理子 ”Byakuren Renren” by Mariko Hayashi

日本に華族制度があったことを覚えている人は少ないと思う。

華族は明治2年(1969年)に発布された身分制度の俗称である。変遷を経て、公・侯・伯・子・男の爵位を授けられて、財産保全などの特権を伴う社会的身分となった。1947年、新憲法施行により廃止された。華族は現在の芸能人のような扱いもされており、『婦人画報』などの雑誌には華族子女や夫人のグラビア写真が掲載されることもよくあった。一方で華族の私生活も一般の興味の対象となった。その中でも、1921年10月の『白蓮事件』は大スキャンダルとなった。 (Wikipedia)

大正天皇の従妹にあたる歌人・柳原燁子[1885-1967](雅号白蓮)は、25歳年上の九州の炭鉱王、伊藤伝右衛門と再婚した。1911年のことである。筑紫で「新規まき直し」を計ろうとしていた彼女を待っていたのは、複雑極まりない家族構成の伊藤家だった。妾の子(小6)、養嗣子(大学生と小1)、伝右衛門の父が妾に生ませた異母妹(女学生)、母方の従弟などが一つ屋根の下で暮らしていた。夢見ていた女学校経営も叶えられなかった。そんな彼女の唯一の救いは、歌を詠むことだった。彼女は文学界で活躍を始め、名実ともに『筑紫の女王』として君臨し、新聞を賑わせていった。そんな折、7歳年下の社会主義者、宮崎龍介と知り合い、36歳で初めて恋に落ちた。白蘭は何もかも捨てて、宮崎の元に逃げる覚悟を決めた。それを、前代未聞の新聞紙上で夫の伊藤に絶縁状を公表するという方式で行った。

著者は、本編前半を白蓮の婚姻から宮崎龍介に会うまでの10年間に充てている。読者は彼女を取り巻く環境や彼女の心境を多分に知ることが出来る。後半200余頁は、二人の交わした手紙を多く引用しながら、宮崎との激しい恋、彼女が生死を掛けて愛を追及した2年間に充てている。「日本で炭鉱がもてはやされた時期があったんだ。公娼制度や姦通罪やが存在していたんだ。社会主義の台頭があったんだ。日本は“大陸”の一部を支配していたんだ、、、」読者は忘却の彼方に追いやられていた一世紀前の日本社会を思い起こす。

主人公白蘭の他に、皇后の弟に嫁いだ九条武子、福岡鉱務所長の妻野田茂重子、京都にいる伝右衛門の妾サトの中年女性たちが”共犯者”グループを作り上げる。愛人と「大陸へ逃げよう」とまで思い詰めながら、白蓮事件の後、何事もなかったように元のさやに戻った武子。「一緒に死んでくれ、と言われるのが一番幸せ」と、泣き崩れる茂重子。「妾は妾なりに意地もありますのえ。その旦那さんにとってたった一人の妾になりとうおす。」と心の内を明かすサト。円熟した女性たちの、崖っぷちに立たされた恋が綴られている。

伊藤家の中で、白蘭が好意を持ったただ一人の女性は、10才年下の異母妹初枝だった。彼女は初枝を自分と類似の女性に育てあげたかった。白蓮は初枝を、東京の東洋英和女学校に送って教育を受けさせた。帰郷後、初枝は白蓮のアレンジで華族の男性と結婚したが、その生活に潤いはなかった。彼女は、白蓮と宮崎の恋がめらめらと燃えているとき、傍に居ながら、実にナイーブに二人を見ていた。白蓮事件で一番強い余波を受けたのは、初枝だったかもしれない。事件の数年後、初枝は尼寺でひっそりと死す。本書に登場する女性の中で、一番“まっとう”に見えた初枝の最終章としては、あまりにアイロニカルである。千津子

チコの独偏ブック・レビュー 『いい加減にしろ韓国』豊田有恒

December 11th, 2015
『いい加減にしろ韓国』豊田有恒 Aritsune Toyota

『いい加減にしろ韓国』豊田有恒 Aritsune Toyota

最初にお断りしておきますが、私が今回この本を取り上げた理由は、某国を揶揄したり非難したりするためではありません。ここに至った背景は -

2015年5月、訪日時のこと。東京の友人との会話中に、彼女の口から「韓国はもう嫌ッ!」が飛び出しました。40年来の友である彼女がそんなことを言ったのを初めて聞きました。そういえば、アメリカにいる私の耳にも、慰安婦問題やら、何やらカニやらと不快なニュースが届いていました。帰国してから、何が彼女をしてそこまで言わせたのか、調べてみることにしました。その過程で読んだ1冊が、『いい加減にしろ韓国』だったのです。

*****

豊田有恒氏は、大の親韓派。まえがきの冒頭で「ぼくは、日韓友好を願う点では、人後に落ちないつもりだ」と述べている。その彼が、堪えきれなくなって、この本を1994年に上梓した。読了後の私の第一印象は、「20年も前から日韓関係はこんなに泥沼化していたのか!」と言うことでした。そして、二国間関係は悪化し続けています。

著者は言う。日韓問題の解決の糸口が見えないのは「双方の認識ギャップの大きさです」と。韓国は「自分たちが優秀だと自負している。だから負けるはずがないと考えている。」そのスタンスで、日本に矢継ぎ早に要求を突き付ける。日本人は、「駄目式の思考をバネにして伸長してきた。日本人が、過剰な自信を持ち、尊大になったときは、ろくなことにならなかった。」だから謝る。日韓の思考方式には、接点がないのである。

ユーラシア大陸の東端に位置し、過去2000年に960回も侵略された韓国。そんな国民が、他国民を簡単に信用するはずがない。中国ばかりを見てきた韓国。日本は眼中になかった。ハングル文字は16世紀に成立するが、上流階層は漢字を使い続けた。中国から侮られないため、勤労を美徳としない儒教を大真面目に実践した。著者は、韓国のこういった歴史を踏まえて、彼らの国民性を知る必要があると説いている。

彼は続ける。韓国の反日運動の基盤になっているのが、「日帝三六年」。それを御旗に韓国は、日本に要求・悶着を突きつける。もし、朝鮮半島が中国かロシアに支配されていたら、韓国のみならず、世界史は全く異なった経緯を辿ったことだろう。日韓併合のをしっかり見極めなければならない。そして、彼の提言は、、、、また、在日韓国人に関する彼の意見は、、、、

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戦後70年。今まで未公開の戦時資料が日の目を見るようになってきた。それにより新情報がアクセスできるようになった。私たちは、真実を探求する心を失わないようにしなければならない。歴史に向かい合い、正しい歴史が綴られるために、学習する姿勢を貫いて行こうではありませんか。千津子

チコのブック・レビュー 『金持ち父さん、貧乏父さん」Rich Dad, Poor Dad

November 28th, 2015
『金持ち父さん、貧乏父さん』ロバート・キヨサキ+シャロン・レクター

『金持ち父さん、貧乏父さん』ロバート・キヨサキ+シャロン・レクター

「世の中には二つのルールがある。金持ちが使っているルールと、残りの95パーセントの人が使っているもう一つのルールだ。家庭や学校で教えられているのは、この95パーセントが使っているルールだ。」(ロバート・キヨサキ)

ロバートの原稿をまとめたシャロン・レクターは、前者を「ひたすら安全のみを求める道」、後者を「『お金に関する才能』を目覚めさせる道」と要約している。

ロバート・キヨサキは、ビジネス経営をしながらハワイ一の富豪になった親友の父親(rich dad)と、 高い教養を持ちながらもお金に苦労した実の父親(poor dad)から、お金に対するアドバイスを得ながら育った。

二人のアドバイスは対極にあった。例えば、

「金持ちはお金に困っている人を援けるためにもっと税金を払うべきだ。」vs.「税金は生産する者を罰し、生産しないものに褒美をやるためのものだ。」

「一生懸命勉強しろ、そうすればいい会社に入れるから。」vs.「一生懸命勉強しろ、そうすればいい会社を買うことができるから。」

「この家は私たちにとって最大の投資であり、最大の資産だ。」vs.「この家は負債だ。持ち家が自分にとって最大の投資だという人は大いに問題がある。」

という具合だ。ロバートはそのギャップの大きさに当惑しながら、自分の取るべき道を模索していった。

アメリカの金持ちはどんどん富を積ね、貧富の差が拡大していった。学校ではお金のことを教えてくれなかった。ロバートは二人の父親のお金に対する考え方のギャップの挟間で、悩んだ。彼の行きついたところは、金持ち父さんのアドバイスだった。彼はお金を自分のために働かせるように努力した。金持ちのルールを使って47歳で退職した。

ロバートは私たちがファイナンシャル・インテリジェンスFinancial Intelligence(お金に関する知識)をしっかり学ぶ必要性を説く。この本の中には、それを会得するメソッドがぎっしり詰まっている。

お金の教育は、学校ではなく家庭で行われる。95%の家庭は、昔からのお金のルールを子どもたちに教えている。金持ちになるには、5%(もう一つ)のルールを学ぶ必要がある。家の食卓を囲んで子どもたちとお金や税金について話そう。ルールは若い時に知れば成功率が高い。しかし、年齢に関係なく、金持ちのルールを会得することはできる。

ルールを知らずに、プレーはできない。

千津子

チコのブック・レビュー 『青い目の債権取り立て屋奮闘記』Steven Gan

November 28th, 2015
『青い目の債権取り立て屋奮闘記』スティーブン・ギャン Steven Gan

『青い目の債権取り立て屋奮闘記』スティーブン・ギャン Steven Gan

ステラ・リスクのスティ―ブン・ギャン氏に依頼されて書いたブック・レビューをリンクします。

ブック・レビューを読む

千津子

チコのブック・レビュー『時が滲む朝』楊逸 Yang Yi

November 5th, 2015
『時が滲む朝』Toki ga Nijimu Asa

『時が滲む朝』Toki ga Nijimu Asa

『時が滲む朝』楊逸(ヤン・イー)著

中国民主化運動に参加した学生たちと運動主唱者の教授を天安門事件前夜から2000年まで追った物語。

時は1988年、浩遠と志強は中国西北部の大学に合格し、将来への希望を膨らませていた。文学部の甘教授の講義が学生たちの間で評判になっていた。教授は中国民主化運動の推進者だった。浩遠と志強はデモに参加するようになり、そこで教授の傍らにいる英露に惹かれるようになる。1989年、北京の天安門事件の後、教授は家族を置いて国外脱出、英露は行方不明になる。浩遠と志強は事件後、小料理屋で泥酔した挙句いざこざを起し、3か月の拘留、退学となる。エリートから「農民工」に堕ちた二人。浩遠は中国残留孤児の娘と結婚して日本に移住。日本で中国民主化運動を続けながら、甘教授と英露の行方を調査する。一方志強は中国に残り服飾デザイン分野で活路を開く。

中国現代史に興味のある人にお奨めの小説です。1989年の天安門事件を皮切りに、孫文、蒋介石、魯迅、劉胡蘭等の名前を織り込みながら香港返還、北京オリンピック選考等に触れている。また、主要登場人物を日本、アメリカ、ヨーロッパに走らせて、中国を外から見つめさせている。1989年東欧の民主化にも触れて、それを中国の民主化運動と読者をして比較せしめている。中国詩やシェリーの詩、テレサ・テンや尾崎豊の音楽を挿入することにより、ストーリーを効果的に和らげている。

中編小説なのでキャラクターや事件構築面で深みを欠いていることは否めない。また、主要登場人物4人以外の影の薄さも気になるところではある。しかし、すっきりとしたストーリーの流れがそれを相殺している。

中国の改革運動は一昔前とは随分変わった。浩遠の父は1957年の「反右派運動」の煽りを受け、北京大学卒業直前に西北に下放された。息子の浩遠は、1989年の天安門事件を経て20世紀も終わりに近づいた頃、在日中国人として隣国日本で民主運動を続けている。本書から在日中国人の運動への興味は下火になってきていると読み取れる。1990年代に日本で生まれた浩遠の子どもたちは、もう大学に行く年頃。彼らは中国をどのように見ているのであろうか?

千津子

チコのブック・レビュー『跳びはねる思考』東田直樹

October 29th, 2015
『跳びはねる思考』東田直樹 Tobihaneru Shikou by Naoki Higashida

『跳びはねる思考』東田直樹 Tobihaneru Shikou by Naoki Higashida

2009年秋、私はシカゴ郊外の某女性の家に下宿していました。彼女には10才になる重度の自閉症の息子がいました。その子は平日は寄宿舎生活をしていましたが、隔週末(金曜午後~日曜午後)母親の元で過ごしました。それが自閉症の子供に接する私の初めての経験でした。

去年、近くの町で思春期の自閉症の息子を持つ家族を扱った劇Falling(Deanna Jent作)が上演されたのをきっかけに、私の自閉症に関する関心が深まりました。調べると、日本に東田直樹という自閉症の青年がいて、執筆活動をしていることを知りました。ユーチューブで彼の著書『自閉症の僕が跳びはねる理由』の英訳者を追ったドキュメンタリーや、昨年ニューヨークで講演をした東田さんのビデオを視聴しました。昨年末、日本に行く友人に彼の本を購入するようお願いしたところ、『跳びはねる思考』が入手できました。

*********

自閉症は脳機能障害で、症状も程度も多義にわたります。先の下宿先の男の子の症状は、会話がほとんどできず、常にピョンピョン跳ねている状態でした。ビデオを見るのが大好きで、気に入った箇所を何十回と巻き戻して見ていました。何かのきっかけで癇癪を起すと、自分で頬をバシッバシッと平手打ちしました。だから、彼の頬は真っ赤になっていることが多かったのです。よく泣きました。そんな時、母親は彼を抱擁して落ち着かせました。

今年23歳の東田さんも会話ができません。話をしようとすると頭の中が真っ白になるのだそうです。動いていないと不安になるのでいつも動いていたい。周りの人が見ておかしいと思う行動をする。例えば、電子レンジのドアをバタンと閉めた感じに嵌って、何度もドアの開閉をする。走っている車のタイヤに魅了される。彼にとって、時間は線でなく点のようなものなのだそうだ。記憶はルーズに天気とか季節とつながっているらしい。怖い経験は「引き出しにいれ」ておくのでその時点では、落ち着いている。ところが、それがフラッシュバックで現れた時雄叫びをあげる、等々。こういった描写を読むと、下宿先の男の子や劇の中の自閉症の青年の挙動を思い出し、少しずつ彼らが理解できてきます。

東田さんは自然に対する感受性がとても高いと思います。夕日を見て泣きたくなり、青空には自分から飛び込んで行きたくなり、風の中で夢中に走り回る。自然は彼を平等に扱ってくれる。だから、彼は自然に一体化し、その中では自由になれる。人は特別に魅力のあるものではなく、風景の一部でしかない。だから、彼は(人を無視しているのではなく)気になるものに注意が行く。

私たちが彼らを知っている以上に、彼らは私たちのことを観察しているのではないでしょうか?私達は自閉症の人たちをよりわかろうと努力することが必要です。たった一人で見知らぬ土地に行き、周りの人がすべて外国語を話している。その時の孤独感・疎外感が自閉症者の気持ちに似ているかもしれない。自閉症の人たちと私たちの接点や共通項はあります。また、彼らの視点は私たちのそれとは異なることも多くあります。それを知ることが肝要です。東田君は、その一部を私たちに語ってくれました。座右のガイドブックとして、何度も手にし、反芻していく書物だと思います。千津子